に思ひを唆《そゝ》られてか潤んだ聲で言つた。
「いや、貴女こそ……」
と圭一郎は感傷的になつて優しく口の中で呟いた。千登世を慈《いつく》しんでくれてゐる大屋の醫者の未亡人への忘れてはならぬ感謝と同時に、千登世に向つても心の中で手を支へ、項《うなじ》を垂れ、そして寢褥《ねどこ》に入つた。誰に遠慮氣兼ねもない心安さで手足を思ふさま伸ばした。壁は落ち、襖《ふすま》は破れ、寒い透間の風はしん/\と骨を刺すやうに肌身を襲ふにしても、潤んだ銀色の月の光は玻璃《ガラス》窓を洩れて生を誘ふがに峽谷の底にあるやうな廢屋《はいをく》の赤茶けた疊に降りた。四邊は※[#「闃」の「目」に代えて「自」、164−下−17]《しん》と聲をひそめ、犬の遠吠えすら聞えない。ポトリ/\とバケツに落ちる栓のゆるんだ水道の水音に誘はれて、彼は郷里の家の裏山から引いた筧《かけひ》の水を懷しく思ひ出した。圭一郎はいきなり蒲團を辷り出て机に凭掛《よりかゝ》り、父に宛てて一軒の家を持つた悦びを誇りかに葉書にしたゝめたが、直ぐ發作的に破いてしまつた。
「あなた、今朝は、ゆつくりおやすみなさいね」
 明る朝、曉方早く眼ざめた二人は、どうに
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