ゞ言葉は絶え果てる。何うにもして見ようなきわれわれを憐れみ給ふ廣大なお慈悲であつたのか。僕は、まだまだ人生に失望すべきではなかつた!」
と、私は或種の信念の踊躍を覺え、絶えて久しいお念佛を口に出して、息を呑み息を吐いた。
「あなた、あの親王樣のお召物といふのは、あれをほんたうに着てゐられたのでせうか。わたし、どうも信じられませんの。」
「そんなことが分るものか、馬鹿。」
「一體、どういふ譯で牢屋へお入りになるやうになつたのですかね?」
「馬鹿だなあ。それを知らんのか。女學校の時、歴史で教はつた筈ぢやないの。」
「もう學校を出てからずゐぶんになるものですから、忘れましたの。同窓會の時は、いつでも安藤先生が、琵琶を彈いて十八番の護良親王を歌はれるのを、度々聞かされたのですけど……」
「馬鹿だね。やつぱし、學問してない奴は、駄目、駄目。」
「そんなに馬鹿々々おつしやらずに、話して下さればいいぢやありませんか。忘れたものは仕樣がないんですもの。」
私達は口爭ひを始めたが、鳥居の前に、先刻、十一時半には鎌倉驛前から迎へに來ると車掌の言つた自動車が、もう客を待つてゐたので、急いで行つて乘つた。
そこへ、長谷行きの自動車も來た。來がけに同じ自動車に乘り合せ、境内でも後になり先になりしてゐた、餘所の目の大きい丸髷に結つた奧さんと、娘の女學生、小學生の息子さんの一行は、長谷行きのはうに乘つた。
驛前で自動車を降り、晝食をすますと、直ぐに藤澤行きの電車に乘つた。
長谷で降りて、觀音に詣でた。さすがに古い建物らしく、何十本もの突支棒《つつかひぼう》が、傾いた堂宇を支へてゐた。若い毛唐人が二人、氣味惡い堂内につか/\入つて、蝋燭のともつてゐる觀音像を仰いで早口に喋つてゐたが、御札所のロイド眼鏡をかけた若い坊さんに何事かを問ひ出した。坊さんが、意外にも卷舌の氣取つた發音で、いち/\丁寧に説明してやつてゐるのを、私達は羨ましく見ていた。
「あのお坊さん、よほど出來るのですね。わたし、びつくりしましたわ。」
「あゝ、あゝいふところには、西洋人が始終來るから、それだけの人が置いてあるらしい。」
「あなたなんかも、今のうち語學の勉強をして下さいな。田舍に居る時は、東京へ出さへしたら/\と思つてゐたのに、東京へ出ると、つい怠けてしまふんですからね。ほんとに寶の山に入つて手を拱《こまぬ》くとは、このことですよ。いくらでも夜學にだつて行けるぢやありませんか。」
ユキは坊主の英語に餘程感心したと見えて、微風にそよぐ楓や樫の緑葉に包まれた石段を下りながら、そして大佛へ向ふ道々でも、無暗に私を齒痒く思つて勵ますのであつた。
大佛の前で、先程、鎌倉宮の鳥居の下で別れた親子づれの一行が、そこへ歩いて來た私達を見て、何か囁いていた。私は別だん拜むでもなく、大佛さんの背後に廻ると、正面の圓滿の相を打仰ぐのとは反對に、だだつ廣い背中のへんに、大きな廂窓《ひさしまど》が開いてゐた。
「母ちやん、お倉の窓みたいだね、滑稽だね。」
と、小學生が言つたので、私は、その母の人とちよつと顏を合せて、噴き出した。
右側で、御胎内拜觀の切符を賣つてゐるところに來ると、大佛さんの端坐した臺石からお腹の中に通ずる長方形の入口があり、丁度二三人の人が出て來たので、私は切符を買ひ物好きにも入つて見て、又笑ひ出した。下駄の音がガーンと響く空洞の胎内は、鐵筋コンクリートのビルヂング式になつて、階段を上ると、大佛さんの頤の内側のところに、きらびやかな黄金色の佛像が安置してあつた。
「あなたも上つて來なさい。」
私が上から聲をかけると、ユキは鐵板の急な梯子を半分あがつたあたりで、足に痙攣が來て立ち竦《すく》んだ。ユキは、幾年も坐りづめにお針をしてゐたゝめ、この頃足に強い痲痺が來て往來で動けなくなることが屡※[#二の字点、1−2−22]だつた。
「巫山戲るな。しつかりしろ!」と、私は忌々しいやら、ひどく縁起も惡く、眉をひそめて叱つた。
外へ出ると、何か騙されたやうで、矢鱈に腹立たしさが募つた。
「精神文化といふ奴も、唯その發生に意義があるだけで、形式に墮したら、これぐらゐ下らないことはない。長谷の大佛なんて、實に阿呆なもんだな。馬鹿にしてら。」
「早く江の島へ行きませうよ。」
私達は氷屋の牀机に腰かけて懷から取出した地圖の上に互に指でさし示して、順路の相談をした。
「觀音樣の境内から見た海が、由比ヶ濱といふのですね。わたし、海水浴場が見たいんですの。」
「僕も見たい。江の島へ一應行つてから又引き返すことにしよう。」
私もユキも、關東地方の海水浴場の光景を、まだ一度も見てなかつたのである。が、三十分の後二人は、人々の繁く行交ふ江の島の棧橋から片瀬の海水浴場を眺めて、この何年かの願ひがやつと叶つた嬉しい思ひを語り合ふことが出來た。
「アイ子さんの嫁いでゐらつしやるお家のご別莊が、この近くにあるんですつて。ご隱居さまが、一度遊びに行つたらどうかつて、先達もおつしやつたんですの。」
アイ子さんといふのは、ユキの親しくしてゐる本郷の或家の隱居さんの末つ子で、一昨年淺草のさる物持ちの呉服屋へ嫁いで行かれた。旦那さんは、寫眞と本を買ふことが道樂とかで、大勢の召使にかしづかれ、ほんとに世に缺けたることもない幸福な家庭であるらしかつた。おほかた、あそこで泳いでゐらつしやるでせうよ、とユキは、午後一時の強い日の光を反射した弓状の片瀬海邊の波の百態に戲れてゐる夥しい人の群を見て言つた。
とやかく話しながら橋上を歩いてゐるうち、
「あら!」と、突然ユキは奇聲を上げた。
「あら、奧さんでしたの。」
あちらさんでも、びつくりなすつたらしい。手拭地の浴衣に輕く半幅帶をしめ、榮螺《さざえ》を入れた網袋をさげた女の人を見ない風して、狹い橋を避けるやうにして二三歩すゝむと、旦那さんらしい人にぢつと見られて私は顏を伏せたが、がつしりした體格であること、それから貴族的な日に燒けた丸顏と、上品な飴色の鼈甲眼鏡の印象が眼に留つた。
「こんな恰好をお眼にかけて……」
「あの、只今、お噂してゐたところなんでございますの。」
そんな會話を千切れ/\耳にしながら、私はものの三四分もきら/\光る眩ゆい海の面に眼を落してゐると、ユキが、顏を眞赤にしてあわてゝばたばた走つて來た。
「アイ子さんのご一家ですの。別莊は、小田急の終點の直ぐ傍だから、お待ちしてますから歸りには是非寄つて下さいつておつしやいましたの。旦那さまは、あなたにお會ひしたいやうな口吻《くちぶり》でしたのよ。あなた、お寄りしないでせう?」
私は苦笑してゐた。
棧橋を渡り切つて坂道にとりかゝると、兩側の旗亭から、
「よつていらつしやいまし、休んでいらつしやいまし、これから岩屋まで十五六丁ありますから、一寸休んでいらつしやいまし、サイダーもラムネも冷えてゐます、氷水でも召上つていらつしやいまし。」と、どの家からもどの家からも、同じ長たらしい文句を同じ長たらしい口調で喧しく呼びかける。やがて面前に立ち塞がつた辨天樣の高い石段の下まで登つて、ほツと息を吐いて振り返ると、長谷の大佛で、何處へともなく別れた、例の親子づれに又逢つた。おや! と言つた眼付で、雙方顏を見合せた。
「僕はこの方を上つて行くから、あなたは、あつちの石段から上りなさい。」
私は、男坂《をとこざか》女坂《をんなざか》といふ石柱の文字を見てユキに命ずると、
「母ちやん、僕も男だから、こつちから上らうね。」と、小學生が言つた。
「いゝえ、あんたは子供だからいゝの。母ちやん達と一しよにいらつしやい。」
かう言つて母親は娘と眼を合せて笑つた。私は強い羞恥を覺えて、自分を窘めてゐた。
邊津宮、中津宮、奧津宮――へと、幾曲折した道を息を切らしつゝ上り下りの間も、「よつていらつしやいまし、休んでいらつしやいまし、まだ十五六丁はあります。」と茶屋から煩さく呼ばれて、取つ着きでもさう言つてゐたのに、もうずゐぶん歩いて來てまだ十五六丁はをかしいと訝しく思ひながらも、茶屋に憩うたりした。行くうちに、岩屋道の道しるべを見て、急角度の石段を下りかけると、道中の鬱茂《こんもり》した常磐木の緑に暗くなつてゐる眼先に、忽ち、美しい海景が展けた。石段は崖の中腹の小徑につゞいて、狹い低いトンネルに來た。奧は暗く、入口の周圍の岩の裂目には海ウジが一面に重なり合つてゐた。
「もう行くまい、こはくなつた。」
「えゝ、行きますまい。地震でも來たら大へんですよ。」
二人は後に退いたが、一寸頸を傾げて考へて、いや、行かう、こゝまで來たのだもの、おれと一緒に來い、と私はユキの手を握つて先に立ち、顫《ふる》へてゐるユキをそびくやうにしてトンネルを潛り、危げな棧橋を渡り、やうやく岩屋に入ると、直前の白木の祠《ほこら》に胡坐をかいてゐる蝋石細工の妖しい佛像が眼に入つた。近づくと佛像どころか、白い衣を纏ひ、頭はたいわんぼうずで髮の毛が一本もない人間の子で、それは蝋燭賣りの小僧であつた。折からそこへ祠の背後の窟から三人の女學生が出て、火が消えたわ、點けて頂戴よ、と言ふと、白子は薄氣味惡くニタリと笑つて、運が惡いですぞ、と言つてへん[#「へん」に傍点]な斜視を使つて女學生をからかつた。
私は厭な氣がして引き返さうとしたが、やはり負け惜しみに引き摺られて蝋燭を買ひ、水滴が襟脚を脅かす長窟の中に、四ん這ひのやうになりユキを案内してずんずん入つて行き、大日如來とかいふ石佛を拜んでから外に出たが、窟前から海邊へ下りると、また無性に腹が立つてわれながら憤慨した。
「實に、愚劣だなア。つく/″\日本といふ國に愛想がついた。……かと言つて、愚劣なことに引つかゝつて、好奇心を動かして、窟《あな》の中にこそ/\入るといふのも、愚劣以上の愚劣だけど……」
怒濤が激打する岩岸に、一艘の小舟がつながれてゐた。ユキを先に私も乘つた。船頭は櫂を水に突込んで、體を反らした。稚兒ヶ淵といふのを離れて波は次第に靜かになつた。私は嬉しかつた。ユキは少女時代を瀬戸内海に沿うた漁師町で成長したから、さして水の上が珍らしくないであらうが、私は山國育ちで、こんな小舟に棹したことさへ、半生にないのである。私は舷に凭れてぢつと蒼い水面に視入つた。ふと頭を上げて遙の遠くに、富士や箱根や熱海の、淡い靄につゝまれた緑青色の連山の方をも眺めた。島の西浦の、蓊鬱と茂つた巨木が長い枝を垂れて、その枝から更に太い葛蘿《つたかづら》が綱梯子のやうに長く垂れた下の渚近くをめぐつて、棧橋のそばの岸で私達は舟を棄てた。
「今度は、橋を渡らずに砂濱を歩いて、片瀬の海水浴場に行きませう。」
「うん。」
頭上の棧橋を往き復る混み合つた人々の影が、砂濱の上にまで長く延びてゐた。
「棧橋を渡る人は、誰でも三錢とられるでせうか。島の人は朝に晩に大變ですね。」
「まさか、土地の人は出さないだらう。」
「土牢拜觀五錢、大佛樣御胎内二錢、棧橋を渡れば三錢、岩屋に入れば五錢……どこもかしこもタダでは通しませんね。關所々々では呼び留められて、やれ五錢、やれ三錢……」とユキは、斯う言つてへうきんに笑つた。
私は誘はれて聲を立てゝ笑つた。
一つ所に立つて、左手の長い半月形の濱で地曳網を引く漁師たちの律動的な運動、オーイオーイと遠くの方で渇を愬《うつた》ふ呼び聲、ビール壜に詰めた水を運ぶ女房たち――そうした彼等の生活を、私共は半ば憧憬の心をもつて暫らくの間見てゐた。
何故《なぜ》かしら、私達は一刻も早く由比ヶ濱に行きたかつた。そこで思ふ存分最後に遊びたいのであつた。それに、また、アイ子さんの一家に逢ひはしないかといふ懸念が手傳つて、午さがりの片瀬海水浴場の雜沓の中を、さつさと引きあげた。
電車が腰越に停つた時、ユキは問かかけた。
「あなた、こゝですね腰越といふのは、義經の腰越状といふのは、此處で書いたのですね。」
「腰越状? どういふのであつたかな……」
「あれを知らないんですか。義經が兄の頼朝の誤解をとかうと思つて書いた手紙ぢ
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