言つた眼付で、雙方顏を見合せた。
「僕はこの方を上つて行くから、あなたは、あつちの石段から上りなさい。」
私は、男坂《をとこざか》女坂《をんなざか》といふ石柱の文字を見てユキに命ずると、
「母ちやん、僕も男だから、こつちから上らうね。」と、小學生が言つた。
「いゝえ、あんたは子供だからいゝの。母ちやん達と一しよにいらつしやい。」
かう言つて母親は娘と眼を合せて笑つた。私は強い羞恥を覺えて、自分を窘めてゐた。
邊津宮、中津宮、奧津宮――へと、幾曲折した道を息を切らしつゝ上り下りの間も、「よつていらつしやいまし、休んでいらつしやいまし、まだ十五六丁はあります。」と茶屋から煩さく呼ばれて、取つ着きでもさう言つてゐたのに、もうずゐぶん歩いて來てまだ十五六丁はをかしいと訝しく思ひながらも、茶屋に憩うたりした。行くうちに、岩屋道の道しるべを見て、急角度の石段を下りかけると、道中の鬱茂《こんもり》した常磐木の緑に暗くなつてゐる眼先に、忽ち、美しい海景が展けた。石段は崖の中腹の小徑につゞいて、狹い低いトンネルに來た。奧は暗く、入口の周圍の岩の裂目には海ウジが一面に重なり合つてゐた。
「もう行くまい、こはくなつた。」
「えゝ、行きますまい。地震でも來たら大へんですよ。」
二人は後に退いたが、一寸頸を傾げて考へて、いや、行かう、こゝまで來たのだもの、おれと一緒に來い、と私はユキの手を握つて先に立ち、顫《ふる》へてゐるユキをそびくやうにしてトンネルを潛り、危げな棧橋を渡り、やうやく岩屋に入ると、直前の白木の祠《ほこら》に胡坐をかいてゐる蝋石細工の妖しい佛像が眼に入つた。近づくと佛像どころか、白い衣を纏ひ、頭はたいわんぼうずで髮の毛が一本もない人間の子で、それは蝋燭賣りの小僧であつた。折からそこへ祠の背後の窟から三人の女學生が出て、火が消えたわ、點けて頂戴よ、と言ふと、白子は薄氣味惡くニタリと笑つて、運が惡いですぞ、と言つてへん[#「へん」に傍点]な斜視を使つて女學生をからかつた。
私は厭な氣がして引き返さうとしたが、やはり負け惜しみに引き摺られて蝋燭を買ひ、水滴が襟脚を脅かす長窟の中に、四ん這ひのやうになりユキを案内してずんずん入つて行き、大日如來とかいふ石佛を拜んでから外に出たが、窟前から海邊へ下りると、また無性に腹が立つてわれながら憤慨した。
「實に、愚劣だなア。つく/″\日本といふ國に愛想がついた。……かと言つて、愚劣なことに引つかゝつて、好奇心を動かして、窟《あな》の中にこそ/\入るといふのも、愚劣以上の愚劣だけど……」
怒濤が激打する岩岸に、一艘の小舟がつながれてゐた。ユキを先に私も乘つた。船頭は櫂を水に突込んで、體を反らした。稚兒ヶ淵といふのを離れて波は次第に靜かになつた。私は嬉しかつた。ユキは少女時代を瀬戸内海に沿うた漁師町で成長したから、さして水の上が珍らしくないであらうが、私は山國育ちで、こんな小舟に棹したことさへ、半生にないのである。私は舷に凭れてぢつと蒼い水面に視入つた。ふと頭を上げて遙の遠くに、富士や箱根や熱海の、淡い靄につゝまれた緑青色の連山の方をも眺めた。島の西浦の、蓊鬱と茂つた巨木が長い枝を垂れて、その枝から更に太い葛蘿《つたかづら》が綱梯子のやうに長く垂れた下の渚近くをめぐつて、棧橋のそばの岸で私達は舟を棄てた。
「今度は、橋を渡らずに砂濱を歩いて、片瀬の海水浴場に行きませう。」
「うん。」
頭上の棧橋を往き復る混み合つた人々の影が、砂濱の上にまで長く延びてゐた。
「棧橋を渡る人は、誰でも三錢とられるでせうか。島の人は朝に晩に大變ですね。」
「まさか、土地の人は出さないだらう。」
「土牢拜觀五錢、大佛樣御胎内二錢、棧橋を渡れば三錢、岩屋に入れば五錢……どこもかしこもタダでは通しませんね。關所々々では呼び留められて、やれ五錢、やれ三錢……」とユキは、斯う言つてへうきんに笑つた。
私は誘はれて聲を立てゝ笑つた。
一つ所に立つて、左手の長い半月形の濱で地曳網を引く漁師たちの律動的な運動、オーイオーイと遠くの方で渇を愬《うつた》ふ呼び聲、ビール壜に詰めた水を運ぶ女房たち――そうした彼等の生活を、私共は半ば憧憬の心をもつて暫らくの間見てゐた。
何故《なぜ》かしら、私達は一刻も早く由比ヶ濱に行きたかつた。そこで思ふ存分最後に遊びたいのであつた。それに、また、アイ子さんの一家に逢ひはしないかといふ懸念が手傳つて、午さがりの片瀬海水浴場の雜沓の中を、さつさと引きあげた。
電車が腰越に停つた時、ユキは問かかけた。
「あなた、こゝですね腰越といふのは、義經の腰越状といふのは、此處で書いたのですね。」
「腰越状? どういふのであつたかな……」
「あれを知らないんですか。義經が兄の頼朝の誤解をとかうと思つて書いた手紙ぢ
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