、このことですよ。いくらでも夜學にだつて行けるぢやありませんか。」
 ユキは坊主の英語に餘程感心したと見えて、微風にそよぐ楓や樫の緑葉に包まれた石段を下りながら、そして大佛へ向ふ道々でも、無暗に私を齒痒く思つて勵ますのであつた。
 大佛の前で、先程、鎌倉宮の鳥居の下で別れた親子づれの一行が、そこへ歩いて來た私達を見て、何か囁いていた。私は別だん拜むでもなく、大佛さんの背後に廻ると、正面の圓滿の相を打仰ぐのとは反對に、だだつ廣い背中のへんに、大きな廂窓《ひさしまど》が開いてゐた。
「母ちやん、お倉の窓みたいだね、滑稽だね。」
 と、小學生が言つたので、私は、その母の人とちよつと顏を合せて、噴き出した。
 右側で、御胎内拜觀の切符を賣つてゐるところに來ると、大佛さんの端坐した臺石からお腹の中に通ずる長方形の入口があり、丁度二三人の人が出て來たので、私は切符を買ひ物好きにも入つて見て、又笑ひ出した。下駄の音がガーンと響く空洞の胎内は、鐵筋コンクリートのビルヂング式になつて、階段を上ると、大佛さんの頤の内側のところに、きらびやかな黄金色の佛像が安置してあつた。
「あなたも上つて來なさい。」
 私が上から聲をかけると、ユキは鐵板の急な梯子を半分あがつたあたりで、足に痙攣が來て立ち竦《すく》んだ。ユキは、幾年も坐りづめにお針をしてゐたゝめ、この頃足に強い痲痺が來て往來で動けなくなることが屡※[#二の字点、1−2−22]だつた。
「巫山戲るな。しつかりしろ!」と、私は忌々しいやら、ひどく縁起も惡く、眉をひそめて叱つた。
 外へ出ると、何か騙されたやうで、矢鱈に腹立たしさが募つた。
「精神文化といふ奴も、唯その發生に意義があるだけで、形式に墮したら、これぐらゐ下らないことはない。長谷の大佛なんて、實に阿呆なもんだな。馬鹿にしてら。」
「早く江の島へ行きませうよ。」
 私達は氷屋の牀机に腰かけて懷から取出した地圖の上に互に指でさし示して、順路の相談をした。
「觀音樣の境内から見た海が、由比ヶ濱といふのですね。わたし、海水浴場が見たいんですの。」
「僕も見たい。江の島へ一應行つてから又引き返すことにしよう。」
 私もユキも、關東地方の海水浴場の光景を、まだ一度も見てなかつたのである。が、三十分の後二人は、人々の繁く行交ふ江の島の棧橋から片瀬の海水浴場を眺めて、この何年かの願ひがやつと叶つた嬉しい思ひを語り合ふことが出來た。
「アイ子さんの嫁いでゐらつしやるお家のご別莊が、この近くにあるんですつて。ご隱居さまが、一度遊びに行つたらどうかつて、先達もおつしやつたんですの。」
 アイ子さんといふのは、ユキの親しくしてゐる本郷の或家の隱居さんの末つ子で、一昨年淺草のさる物持ちの呉服屋へ嫁いで行かれた。旦那さんは、寫眞と本を買ふことが道樂とかで、大勢の召使にかしづかれ、ほんとに世に缺けたることもない幸福な家庭であるらしかつた。おほかた、あそこで泳いでゐらつしやるでせうよ、とユキは、午後一時の強い日の光を反射した弓状の片瀬海邊の波の百態に戲れてゐる夥しい人の群を見て言つた。
 とやかく話しながら橋上を歩いてゐるうち、
「あら!」と、突然ユキは奇聲を上げた。
「あら、奧さんでしたの。」
 あちらさんでも、びつくりなすつたらしい。手拭地の浴衣に輕く半幅帶をしめ、榮螺《さざえ》を入れた網袋をさげた女の人を見ない風して、狹い橋を避けるやうにして二三歩すゝむと、旦那さんらしい人にぢつと見られて私は顏を伏せたが、がつしりした體格であること、それから貴族的な日に燒けた丸顏と、上品な飴色の鼈甲眼鏡の印象が眼に留つた。
「こんな恰好をお眼にかけて……」
「あの、只今、お噂してゐたところなんでございますの。」
 そんな會話を千切れ/\耳にしながら、私はものの三四分もきら/\光る眩ゆい海の面に眼を落してゐると、ユキが、顏を眞赤にしてあわてゝばたばた走つて來た。
「アイ子さんのご一家ですの。別莊は、小田急の終點の直ぐ傍だから、お待ちしてますから歸りには是非寄つて下さいつておつしやいましたの。旦那さまは、あなたにお會ひしたいやうな口吻《くちぶり》でしたのよ。あなた、お寄りしないでせう?」
 私は苦笑してゐた。
 棧橋を渡り切つて坂道にとりかゝると、兩側の旗亭から、
「よつていらつしやいまし、休んでいらつしやいまし、これから岩屋まで十五六丁ありますから、一寸休んでいらつしやいまし、サイダーもラムネも冷えてゐます、氷水でも召上つていらつしやいまし。」と、どの家からもどの家からも、同じ長たらしい文句を同じ長たらしい口調で喧しく呼びかける。やがて面前に立ち塞がつた辨天樣の高い石段の下まで登つて、ほツと息を吐いて振り返ると、長谷の大佛で、何處へともなく別れた、例の親子づれに又逢つた。おや! と
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