も、犬武士風情のくせしてゐて、親王樣のお首を打ち落すなど、よく/\惡業の強い人間だと思へて私も亦、焦《じ》り焦りと新しい憎しみに煽《あふ》られた。
「この入口は、腰を曲げなければ入れないな。石段になつて、底へ降りられるやうになつてゐるらしい。」と、注連《しめなは》を張つた暗い狹い入口をのぞいて、私は呟いた。
「奧は八疊ほどの廣さですね。」と、ユキも立札を讀んで言つた。
「天井からは水が落ちるだらうが、冬は、どうしてお過ごしなされたのだらう。お食事なんか何ういふ風にして差上げてゐたのだらう。」
「定めし、女の宮人が毒試《どくみ》をして差上げてゐたのでせうよ。その人は殺されなかつたのでせう?」
「あゝ、さうらしい。」
私共は猶穴藏のいぶきに吸ひつけられて、そこを立ち去りかねた。崖の上では、梢が風に鳴つてゐた。
親王のお首を捨て置いたと傳へられるところは、土牢を去る二十歩のところで、小藪の周圍には、七五三《しめ》繩《なは》が繞らしてあつた。藪の前にわづかに三四坪の平地があつて、勅宣の碑が建てられ、別に檜皮ぶきの屋根のついた白木の揚示板に墨痕うるはしく建碑の由來が書いてあつた。
明治六年、明治大帝、最初の特別大演習御統監のため臨幸あらせられた際、この土牢をご覽あそばして、群臣に仰せられた御言葉の一端が誌してある。……朕否徳ニシテ、股肱のたすくるところにより、どうやら、維新の大業をなすことが出來たのだが、こゝに端なくも今、兵部卿親王の土牢の前に來て見て、あゝして建國の業半ばにして、お若いお年で、お悼はしい最後を逐げられた宮の御心事を追懷すれば、朕《ちん》歔欷《きよき》セサルハナシ――大體かういふ意味であつた。
如何にも明治聖帝としては、畏れ多いことながら、わが御身にひきかけ給うて、千萬無量の御實感、御感慨であつたらうと、文字を拾ひ讀んでゐるうちに、おのづと瞼がほてつて、それこそムシケラにも價しない自分如きに相應《ふさは》しからぬが、私はたうとう恐懼の涙を堰止め得なかつた。
ユキに促されて、私は極度の興奮状態で、ふら/\と石段を下り寶物館の前に來て、親王の眞筆、お馬に乘られた木像、お召物の錦の袍など拜觀して、境内の瀟洒な庭に出た。
「朕否徳ニシテ――恐れ入つた御言葉ではないか。勿體ないことには觸れないとして、われわれの場合だつて、否徳――それ以上にも、それ以下にも、た
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