滑川畔にて
嘉村礒多

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)石磴《いしだん》を

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)同族相|戮《ころ》した

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)屡※[#二の字点、1−2−22]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)言ひ/\して
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 北鎌倉で下車して、時計を見ると十時であつた。驛前の賣店で簡單な鎌倉江の島の巡覽案内を買ひ、私とユキとは地圖の上に額と額とを突き合せて、圓覺寺の所在をさがしても分らなかつた。
「圓覺寺といふのは、どちらでございませうか?」
 ユキが走つて行つて、そこの離々と茂つた草原の中の普請場で鉋をかけてゐる大工さんに訊いて見てから、二人は直ぐ傍の線路を横切り、老杉の間の古い石磴《いしだん》を上つて行つた。
 ……夏とは言へ、私には、雜誌に携はる身の何彼と多忙で、寸暇もない有樣だつた。私どもの住んでゐる矢來の家の周圍は、有閑階級の人達ばかりで、夏場はみな海や山に暑さを避けて、私ども夫婦は、さながら野中の一軒屋に佗び住むやうな思ひであつた。夕食が濟むと、私は六疊に仰向けになつて團扇を使ふ。暗い電燈、貧弱な机、本箱一つ、雨の夜の淋しさ――大體そんな風の感じである。
 私達は低い聲で話し合ふのであつた。
「けふね、前の田部《たべ》さんの六つになるお孃ちやんと仲よしのこの坂を下りたところの子供がね、母親に連れられて前の家に遊びに來ましたのよ、そしていつものやうに、友ちやん、遊ばない、といつて門を入ると、友ちやんの姉さんが、友子はきのふから鎌倉へ避暑ですよつて、ちよつと得意な口調で言ひますと、その子供の母親は、文ちやんも明日から父ちやんと日光へ行くのです、ね文ちやん、さあ歸りませう、と言つて歸りましたの。それがほんとのことか、それとも子供のさびしい氣持を思ひやる母親のその場の出まかせか、聞いてゐてわたしをかしかつたんですよ」
 或晩、こんなことをユキから聞かされてゐるうち、突然私は、ユキのために鎌倉行を思ひ立つたのである。元來、私は旅行や散策は嫌ひのはうで、處々方々を歩きまはるといふやうな心の餘裕を憎みたく、
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