ど、四邊には窈冥《えうめい》たる冷氣がいつばい漾《たゞよ》うてゐた。傍の立札には、建武元年十一月より翌年七月まで八ヶ月間護良親王こゝに幽閉され給ふ、と書いてあつた。
二階堂谷の窖《あな》――といふのはこゝであつたのか! 私は少青年時代に愛讀して手離さなかつた日本外史の、その章を咄嗟に思ひ出して、不意に感動に襲はれて、頭の中がジーンと痺れるのを覺えた。
……はじめ親王が近畿の兵と一しよに志貴山に居られた時、父君の後醍醐帝が、天下も既に定まつたことだし、汝は髮を剃つてもとの坊主になれ、と命じられたが、親王は、高時は誅に伏したけれど、足利尊氏が曲者だから、今のうち之を除かなければと申し入れられても、帝は許されないどころか、却つて尊氏が帝の寵姫と結んでの讒言を信じられ、親王を宮中に囚はれた。親王は憤怨あらせられ、父君に上書して、臣夙に武臣の專恣を憤つて、坊主であつたものが戎衣《じゆうい》を被て、世のそしりを受け、而して、たゞ、君父のためにこの身を忘れた、朝廷の人は誰ひとり役に立つものはない、臣ひとり空拳を張つて強敵に抗したわけである。晝伏夜行、山谷にかくれ、霜雪をふんで、生死の巷をくぐり、どうにか賊を亡ぼしたと思うたのも束の間、圖らずこゝに罪を獲るとは、何んといふ不仕合せなことであらう、日月不孝の子に照らず云々、父子義絶す云々、かう御悲嘆あらせられた。すなはち、こゝに二階堂谷の穴藏に押し籠められ給ひ、後に、淵邊某が弑し奉つたといふのである。淵邊某が白刃を提げて穴の中を窺ふと、親王は燭を焚いてお經を讀んでゐられたが、顧みて蹶起され、(貴樣、おれを殺すつもりか、大逆無道者!)と炬《たいまつ》のやうな眼光で睨まれた、臆しもせず淵邊の野郎が、そのお膝を斫《き》りつけ、御身體に馬乘りになつて咽喉を突きかけると、親王は首を縮めて刃にがくツと噛みつかれ、刀を喰ひ折られた、淵邊は貳刀《じたう》を拔いて、心臟を刺した。親王のお首は刃を喰はへたまんま眼を何時までも瞑《つむ》られなかつた……
おのれ、小癪な、憎い! と親王樣はお思ひ遊ばしたことであらうと、私も淵邊の所行が怨めしく、恐ろしく、思はず齒がみをした。
宮の御最期まで側近に奉仕してゐた、藤原保藤の女|南《みなみ》の方といふ方は、その時、さぞかし騷がれたことであらう。親王樣を庇はうにも、女の腕では庇ふ所詮もないのである。それにして
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