鱧の皮
上司小剣

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)焦々《いら/\》した

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)福島|磯《いそ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)をツ[#「をツ」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いら/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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       一

 郵便配達が巡査のやうな靴音をさして入つて来た。
「福島|磯《いそ》……といふ人が居ますか。」
 彼は焦々《いら/\》した調子でかう言つて、束になつた葉書や手紙の中から、赤い印紙を二枚|貼《は》つた封の厚いのを取り出した。
 道頓堀の夜景は丁《ちやう》どこれから、といふ時刻で、筋向うの芝居は幕間《まくあひ》になつたらしく、讃岐屋《さぬきや》の店は一時に立て込んで、二階からの通し物や、芝居の本家や前茶屋からの出前で、銀場も板場もテンテコ舞をする程であつた。
「福島磯……此処《こゝ》だす、此処だす。」と忙しいお文は、銀場から白い手を差し出した。男も女も、襷《たすき》がけでクル/\と郵便配達の周囲を廻つてゐるけれども、お客の方に夢中で、誰れ一人女主人の為めに、郵便配達の手から厚い封書を取り次ぐものはなかつた。
「標札を出しとくか、何々方としといて貰はんと困るな。」
 怖《こは》い顔をした郵便配達は、かう言つて、一間も此方《こつち》から厚い封書を銀場へ投げ込むと、クルリと身体の向を変へて、靴音荒々しく、板場で焼く鰻《うなぎ》の匂を嗅ぎながら、暖簾《のれん》を潜《くゞ》つて去つた。
 四十人前といふ前茶屋の大口が焼き上つて、二階の客にも十二組までお愛そ(勘定の事)を済ましたので、お文は漸《やうや》く膝の下から先刻の厚い封書を取り出して、先づ其の外形からつく/″\見た。手蹟には一目でそれと見覚えがあるが、出した人の名はなかつた。消印の「東京中央」といふ字が不明瞭ながらも、兎《と》も角《かく》読むことが出来た。
「何や、阿呆《あほ》らしい。……」
 小さく独り言をいつて、お文は厚い封書を其のまゝ銀場の金庫の抽斗《ひきだし》に入れたが、暫くしてまた取り出して見た。さうして封を披《ひら》くのが怖ろしいやうにも思はれた。
「福島磯……私《わたへ》が名前を変へたのを、何《ど》うして知つてるのやろ、不思議やな。叔父さんが知らしたのかな。」
 お文はかう思つて、またつく/″\と厚い封書の宛名の字を眺めてゐた。
 河岸《かし》に沿うた裏家根に点《つ》けてある、「さぬきや」の文字の現れた広告電燈の色の変る度に、お文の背中は、赤や、青や、紫や、硝子《ガラス》障子《しょうじ》に映るさま/″\の光に彩《いろど》られた。
 一しきり立て込んだ客も、二階と階下《した》とに一組づゝゐるだけになつた。三本目の銚子を取り換へてから小一時間にもなる二階の二人連れは、勘定が危さうで、雇女は一人二人づゝ、抜き足して階子段を上つて行つた。

       二

 新まいの雇女にお客と間違へられて、お文の叔父の源太郎が入つて来た。
「お出でやアす。」と、新まいの女の叫んだのには、一同が笑つた。中には腹を抱へて笑ひ崩れてゐるものもあつた。
「をツ[#「をツ」に傍点]さん、えゝとこへ来とくなはつた。今こんな手紙が来ましたのやがな。独りで見るのも心持がわるいよつて、電話かけてをツ[#「をツ」に傍点]さん呼ばうと思うてましたのや。」
 お文は女どものゲラ/\とまだ笑ひ止まぬのを、見向きもしないで、銀場の前に立つた叔父の大きな身体を見上げるやうにして、かう言つた。
「手紙テ、何処からや。……福造のとこからやないか。」
 源太郎は年の故《せゐ》で稍《やゝ》曲つた太い腰をヨタ/\させながら、銀場の横の狭い通り口へ一杯になつて、角帯の小さな結び目を見せつゝ、背後《うしろ》の三畳へ入つた。
 其処には箪笥《たんす》やら蠅入らずやら、さま/″\の家具類が物置のやうに置いてあつて、人の坐るところは畳一枚ほどしかなかつた。其の狭い空地へ大きく胡坐《あぐら》をかいた源太郎は、五十を越してから始めた煙草を無器用に吸はうとして、腰に挿した煙草入れを抜き取つたが、火鉢も煙草盆も無いので、煙草を詰めた煙管《きせる》を空しく弄《いぢ》りながら、対《むか》う河岸《がし》の美しい灯の影を眺めてゐた。対う河岸は宗右衛門町で、何をする家か、灯がゆら/\と動いて、それが、螢を踏み蹂躙《にじ》つた時のやうに、キラ/\と河水に映つた。初秋の夜風は冷々《ひえ/″\》として、河には漣《さゞなみ》が立つてゐた。
「能《よ》う当りましたな。……東京から来ましたのや。……これだす。」
 勘定の危《あやぶ》まれた二階の客の、銀貨銅貨取り混ぜた払ひを検《あらた》めて、それから新らしい客の通した麦酒《ビール》と鮒の鉄砲和《てつぱうあへ》とを受けてから、一寸の閑《ひま》を見出したお文は、後《うしろ》を向いてかう言つた。彼女の手には厚い封書があつた。
「さうか、矢ツ張り福造から来たんか、何言うて来たんや。……また金送れか。分つてるがな。」
 源太郎は眼をクシヤ/\さして、店から射す灯に透かしつゝ、覗《のぞ》くやうに封書の表書《うはがき》を読まうとしたが、暗くて判らなかつた。
「をツ[#「をツ」に傍点]さんに先き読んで貰ひまへうかな。……私《わたへ》まだ封開けまへんのや。」
 かうは言つてゐるものの、封書は固くお文の手に握られて、源太郎に渡さうとする容子《ようす》は見えなかつた。
「お前、先きい読んだらえゝやないか。……お前とこへ来たんやもん。」
「私、何や知らん、怖いやうな気がするよつて。」
「阿呆《あほ》らしい、何言うてるのや。」
 冷笑を鼻の尖端《さき》に浮べて、源太郎は煙の出ぬ煙管を弄り廻してゐた。
「そんなら私《わたへ》、そツちへいて読みますわ。……をツ[#「をツ」に傍点]さん一寸銀場を代つとくなはれ、あのまむし[#「まむし」に傍点]が五つ上ると金太に魚槽《ふね》を見にやつとくなはれ。……金太えゝか。」
 気軽に尻を上げて、お文は叔父と板前の金太とに物を言ふと、厚い封書を握つたまゝ、薄暗い三畳へ入つた。
「よし来た、代らう。どツこいしよ。」と、源太郎は太い腰を浮かして、煙管を右の手に、煙草入を左の手に攫《つか》んで、お文と入れ代りに銀場へ坐つた。
 豆絞りの手拭で鉢巻をして、すら/\と機械の廻るやうな手つきで鰻を裂いてゐた板前の金太は、チラリと横を向いて源太郎の顔を見ると、にツこり笑つた。
「此処へも電気|点《つ》けんと、どんならんなア。阿母《おか》アはんは倹約人《しまつや》やよつて、点けえでもえゝ、と言やはるけど、暗うて仕様がおまへんなをツ[#「をツ」に傍点]さん。……二十八も点けてる電気やもん、五燭を一つぐらゐ殖《ふ》やしたかて、何んでもあれへん、なアをツ[#「をツ」に傍点]さん。」
 がらくた[#「がらくた」に傍点]の載つてゐる三畳の棚を、手探りでガタゴトさせながら、お文は声高に独り言のやうなことを言つてゐたが、やがてパツと燐寸《マツチ》を擦つて、手燭に灯を点けた。
 河風にチラ/\する蝋燭の灯に透かして、一心に長い手紙を披《ひろ》げてゐる、お文の肉附のよい横顔の、白く光るのを、時々振り返つて見ながら、源太郎は、姪《めひ》も最《も》う三十六になつたのかあアと、染々《しみ/″\》さう思つた。
 毛糸の弁当|嚢《ぶくろ》を提げて、「福島さん学校へ」と友達に誘はれて小学校へ通つてゐた姪の後姿を毎朝見てゐたのは、ツイ此頃のことのやうに思はれるのに、と、源太郎はまださう思つて、聟《むこ》養子を貰つた婚礼の折の外は、一度も外の髪に結つたことのない、お文の新蝶々を、俯《うつむ》いて家出した夫の手紙に読み耽つてゐるお文の頭の上に見てゐた。其の新蝶々は、震へるやうに微かに動いてゐた。
「何んにも書いたらしまへんがな。……長いばツかりで。……病気で困つてるよつて金送れと、それから子供は何《ど》うしてるちふことと、……今度といふ今度は懲《こ》り/\したよつて、あやまる[#「あやまる」に傍点]さかい元の鞘《さや》へ納まりたいや、……決つてるのや。」
 口では何でもないやうに言つてゐるお文の眼の、異様に輝いて、手紙を見詰めてゐるのが、蝋燭の光の中に淡く見出された。
「まアをツ[#「をツ」に傍点]さん、読んで見なはれ。面白おまツせ。」
 気にも止めぬといふ風に見せようとして、態《わざ》とらしい微笑を口元に浮べながら、残り惜しさうに手紙を其処に置き棄てて、お文は立ち上ると、叔父の背後に寄つて、無言で銀場を代らうとした。
「どツこいしよ。」と、源太郎はまた重さうに腰を浮かして、手燭の点けツぱなしになつてゐる三畳へ、大きな身体を這ひ込むやうにして坐つた。煙管はまだ先刻から一服も吸はずに、右の手へ筆を持ち添へて握つてゐた。
「をツ[#「をツ」に傍点]さん、筆……筆。」と、お文は銀場の筆を叔父の手から取り戻して、懈怠《けだる》さうに、叔父の肥つた膝の温味《ぬくみ》の残つた座蒲団の上に坐ると、出ないのを無理に吐き出すやうな欠伸《あくび》を一つした。
 源太郎は、蝋燭の火で漸《やつ》と一服煙草を吸ひ付けると、掃除のわるい煙管をズウ/\音させて、無恰好に煙を吐きつゝ、だらしなく披《ひろ》げたまゝになつてゐる手紙の上に眼を落した。
「其の表書《うはがき》なア、福島磯といふのを知つてるのが不思議でなりまへんのや。」
 手紙を三四行読みかけた時、お文がこんなことを言つたので、源太郎は手紙の上に俯《うつぶ》いたなりに、首を捻《ね》ぢ向けて、お文の方を見た。
「福造の居よる時から、さう言うてたがな、お文よりお磯の方がえゝちうて、福島と島やさかい、磯と文句が続いてえゝと、私《わし》が福造に言うてたがな。……それで書いて来よつたんや。われの名も福島福造……は福があり過ぎて悪いよつて、福島理記といふのが、劃の数が良いさかい、理記にせいと言うてやつたんやが、さう書いて来よれへんか。……私んとこへおこしよつたのには、ちやんと理記と書いて、宛名も福島照久様としてよる。源太郎とはしよらへん。」
 好きな姓名判断の方へ、源太郎は話を総《すべ》て持つて行かうとした。
「やゝこし[#「やゝこし」に傍点]おますな、皆んな名が二つつゝあつて。……けど福造を理記にしたら、少しは増しな人間になりますか知らん。」
 世間話をするやうな調子を装うて、お文は家出してゐる夫の判断を聞かうとした。
「名を変へてもあいつ[#「あいつ」に傍点]はあかんな。」
 そツ気なく言つて、源太郎は身体を真ツ直ぐに胡坐《あぐら》をかき直した。お文はあがつた蒲焼と玉子焼とを一寸|検《あらた》めて、十六番の紙札につけると、雇女に二階へ持たしてやつた。
「この間も、選名術の先生に私のことを見て貰うた序《ついで》に聞いてやつたら、福島福造といふ名と四十四といふ年を言うただけで、先生は直《ぢ》きに、『この人はあかんわい、放蕩者で、其の放蕩は一生止まん。止む時は命数の終りや。性質が薄情残酷で、これから一寸頭を持ち上げることはあつても、また失敗して、そんなことを繰り返してる中にだんだん悪い方へ填《はま》つて行く』と言やはつたがな。ほんまに能《よ》う合うてるやないか。」
 到頭詰まつて了《しま》つた煙管を下に置いて、源太郎は沈み切つた物の言ひやうをした。お文は聞えぬ振りをして、板場の方を向いたまゝ、厭な厭な顔をしてゐた。

       三

 源太郎がまた俯いて、読みかけの長い手紙を読まうとした時、下の河中《かはなか》から突然大きな声が聞えた。
「おーい、……おーい、……讃岐屋《さぬきや》ア。……おーい、讃岐屋ア。」
 重い身体を、どツこいしよと浮かして、源太郎が腰|硝子《ガラス》の障子を開け、水の上へ架《か》け出した二尺の濡れ縁へ危さうに片足を踏み出した時、河の中からはまた大きな声が聞えた。
「おーい、讃岐屋ア。……鰻で飯を二人前呉
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