配達の周囲を廻つてゐるけれども、お客の方に夢中で、誰れ一人女主人の為めに、郵便配達の手から厚い封書を取り次ぐものはなかつた。
「標札を出しとくか、何々方としといて貰はんと困るな。」
怖《こは》い顔をした郵便配達は、かう言つて、一間も此方《こつち》から厚い封書を銀場へ投げ込むと、クルリと身体の向を変へて、靴音荒々しく、板場で焼く鰻《うなぎ》の匂を嗅ぎながら、暖簾《のれん》を潜《くゞ》つて去つた。
四十人前といふ前茶屋の大口が焼き上つて、二階の客にも十二組までお愛そ(勘定の事)を済ましたので、お文は漸《やうや》く膝の下から先刻の厚い封書を取り出して、先づ其の外形からつく/″\見た。手蹟には一目でそれと見覚えがあるが、出した人の名はなかつた。消印の「東京中央」といふ字が不明瞭ながらも、兎《と》も角《かく》読むことが出来た。
「何や、阿呆《あほ》らしい。……」
小さく独り言をいつて、お文は厚い封書を其のまゝ銀場の金庫の抽斗《ひきだし》に入れたが、暫くしてまた取り出して見た。さうして封を披《ひら》くのが怖ろしいやうにも思はれた。
「福島磯……私《わたへ》が名前を変へたのを、何《ど》うして知
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