、其の小料理屋を出た時は、夜半《よなか》を余程過ぎてゐた。寄席《よせ》は疾《と》くに閉場《はね》て、狭い路次も昼間からの疲労を息《やす》めてゐるやうに、ひつそりしてゐた。
「私《わし》が六歳《むつゝ》ぐらゐの時やつたなア、死んだおばん[#「おばん」に傍点]の先に立つて、あのお多福人形の前まで走つて来ると、堅いものにガチンとどたま[#「どたま」に傍点](頭の事)打付《ぶつ》けて、痛いの痛うなかつたのて。……武士《さむらひ》の刀の先きへどたま[#「どたま」に傍点]打付けたんやもん。武士が怒りよれへんかと思うて、痛いより怖かつたのなんのて。……其の武士が笑うてよつた顔が今でも眼に見えるやうや。……丁ど刀の柄の先きへ頭が行くんやもん、それからも一遍打付けたことがあつた。」
思ひ出した昔懐かしい話に、酔つたお文を笑はして、源太郎は人通りの疎《まば》らになつた千日前を道頓堀へ、先きに立つて歩いた。
「をツ[#「をツ」に傍点]さんも古いもんやな。芝居の舞台で見るのと違うて、二本差したほんまの武士《さむらひ》を見てやはるんやもんなア。」と、お文は笑ひ/\言つて、格別酔つた風もなく、叔父の後からくツ付いて歩いた。
「これから家へ行くと、お酒の臭気《かざ》がして阿母アはんに知れますよつて、私《わたへ》もうちいと[#「ちいと」に傍点]歩いて行きますわ。をツ[#「をツ」に傍点]さん別れまへう。」
かう言つて辻を西に曲つて行くお文を、源太郎は追ツかけるやうにして、一所に戎橋《えびすばし》からクルリと宗右衛門町へ廻つた。
富田屋にも、伊丹幸にも、大和屋にも、眠つたやうな灯が点いて、陽気な町も湿つてゐた。たまに出逢ふのは、送られて行く化粧の女で、それも狐か何かの如くに思はれた。
「私《わたへ》、一寸東京へいてこうかと思ひますのや。……今夜やおまへんで。……夜行でいて、また翌《あく》る日の夜行で戻つたら、阿母アはんに内証にしとかれますやろ。……さうやつて何とか話付けて来たいと思ひますのや。……あの人をあれなりにしといても、仕様がおまへんよつてな。私も身体が続きまへんわ、一人で大勢使うてあの商売をして行くのは。……中一日だすよつて、其の間をツ[#「をツ」に傍点]さんが銀場をしとくなはれな。」
酔はもう全く醒《さ》めた風で、お文は染々《しみ/″\》とこんなことを言ひ出した。
「今、お前が福造に
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