れえ。」
「へえ、あの……」と、変な返事をして、源太郎は河の中を覗き込んだが、色変りの広告電燈が眩《まぶ》しく映るだけで、黒く流れた水の上のことは能く分らなかつた。
「をツ[#「をツ」に傍点]さん、をツ[#「をツ」に傍点]さん。」と、お文の声が背後から呼ぶので、銀場を振り返ると、お文は両手を左の腰の辺に当てて、長いものを横たへた身振りをして見せた。
「あゝ、サーベルかいな。」
漸く合点《がてん》の行つた源太郎は、小さい声でかうお文に答へて、
「へえ、今直きに拵《こしら》へて上げます。」と、黒い水の上に向つて叫んだ。
「さうか、早くして呉れ。」といふ声の方を、瞳を定めてヂツと見下すと、真下の石垣にぴツたりと糊付《のりづけ》か何かのやうにくツ付いて、薄暗く油煙に汚れた赤い灯の点いてゐる小さな舟の中に、白い人影がむくむくと二つ動いてゐた。其の白い人影の一つが急に黒くなつたのは、外套を着たのらしかつた。
通し物の順番を追はずに、板前を急がせた水の上からの註文は直ぐ出来て、別に添へた一品の料理と香の物、茶瓶なぞとともに、こんな時の用意に備へてある長い綱の付いた平たい籠に入れて、源太郎の手で水の上へ手繰《たぐ》り下された。
「サンキユー。」と、妙な声が水の上から聞えたので、源太郎は馬鹿馬鹿しさうに微笑を漏らした。
雇女が一人三畳へ入つて来て、濡れ縁へ出て対岸《むかうぎし》の紅い灯を眺めながら、欄干を叩いて低く喇叭節《らつぱぶし》を唄つてゐたが、藪から棒に、
「上町の旦那はん、……八千代はん、えらうおまんな。この夏|全《まる》で休んではりましたんやな。……もう出てはりますさうやけど、お金もたんと[#「たんと」に傍点]出来ましたんやろかいな。」と、源太郎に向つて言つた。
随一の名妓と唄はれてゐる、富田屋の八千代の住む加賀屋といふ河沿ひの家のあたりは、対岸でも灯の色が殊に鮮かで、調子の高い撥《ばち》の音も其の辺から流れて来るやうに思はれた。空には星が一杯で、黒い河水に映る両岸の灯《ひ》と色を競ふやうであつた。
名妓の噂を始めた縮れ毛の、色の黒い、足の大きな雇女は、源太郎が何とも言はぬので、また欄干を叩いて喇叭節をやり出した。
手紙を前に披《ひろ》げて、ヂツと腕組をしてゐた源太郎は、稍《やゝ》暫くしてから、空《から》になつた食器が籠に入つて雇女の手で河の中から迫《せ》り上つ
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