|髣髴《ほうふつ》としているところに、白山の恐ろしい姿が薄青く浮んでいるのを見とめたので、早速《さっそく》父親に注意しに来たのでした。恐らく父親はこれを聞いたら、それは大変だ、早く船を揚げねばならぬと言って、浜へ飛び出して来るだろうと思っていましたが、父親は、一向平気でいるので、為吉はひどく張合《はりあい》が抜けたのでした。で、暫く黙って、家《いえ》の前の野菜畑の上に眼を落していましたが、急に思い出したように、
「お父《とう》、あの仏壇《ぶつだん》の抽出《ひきだ》しに、県庁から貰《もろ》うた褒美《ほうび》があるね?」と尋ねました。
「何? そんなものがあるかな。」と父親はいぶかしそうに尋ねました。
「あのう、ほら暴風《しけ》に遇《お》うた船を助けた褒美だよ。」
 父親はまるで自分とは関係のない昔話でも聞かされるような気がしました。
「そんなものがあったかな。そりゃお前、十年も昔のことで、お前がまだ生れない前のことだったが。」
 遠い遠い記憶を呼び起すように、為吉の父はかがまっていた長い背を伸して、じっと向うの方を見つめました。
「どうして助けたのかね?」と為吉は尋ねました。
「あの時は、大変な暴風《しけ》でな。」
「矢張《やっぱ》り南東風《くだり》だったね?」
「あ、大南東風《おおくだり》だった。」
「えい。」と為吉は熱心になって、「その時も矢張《やっぱ》り白山が見えていただろうね?」
「そんなことは覚えていないけれど、恐ろしい大浪《おおなみ》が立って、浜の石垣《いしがき》がみんな壊《こわ》れてしもうた。」
「よう、そんな時に助けに行けたね、――死んだものがおったかね?」
「何でも十四五人乗りの大きな帆前船だったが、二人ばかりどうしても行方《ゆくえ》が分らなかった。何しろお前、あの小《こ》が崎《さき》の端《はし》の暗礁へ乗り上げたので、――それで村中の漁夫《りょうし》がその大暴風《おおしけ》の中に船を下《おろ》して助けに行ったのだが、あんな恐ろしいことは俺《おら》ァ覚えてからなかった。」
 為吉は眼を光らして聞いていました。父は為吉の問に応じて、その難破船の乗組員を救助した時の壮烈な、そして物凄《ものすご》い光景を思い出し話して聞かせました。その時為吉の父親は、二十七八の血気盛りの勇敢な漁夫《りょうし》で、ある漁船の船頭をしていたのでした。そして県庁から、人の生命を助けた効によって、褒状《ほうじょう》を貰いました。その褒状は仏壇の抽出の奥の方にしまい込《こ》んで置いて、もう忘れて了《しま》っていたのでした。
 為吉は奥の仏間へ駆けて行って、その褒状を出して来ました。厚い鳥《とり》の子紙《こがみ》に、墨色も濃く、難破船を救助したことは奇特の至りだという褒《ほ》め言葉《ことば》が書いてありました。そして終りに××県知事|従《じゅ》五位勲四等△△△△と、その下に大きな四角な印《いん》を押してありました。
「それから後《のち》には、もう、そんなことはなかったかね?」と為吉は尋ねました。
「漁舟なんかお前、一年に二艘や三艘打ちあげられるけれど、あんなことはなかったよ。」
 父親は、眼をつぶって、昔を思い出している様子でした。

        二

 それから間もなく為吉は再び浜へ下りて行《ゆ》きました。入江には小さな漁舟が五六|艘《そう》、舷《ふなべり》を接してつながれていました。かすかな浪《なみ》が船腹をぴたぴたと言わせていました。夏の暑い日の午後で、丁度昼寝時だったので、浜には誰《だれ》もおらず、死んだように静かでした。ただ日盛りの太陽が熱そうに岩の上に照りかえしているばかりでした。大分《だいぶ》離れた向うの方の入江に子供が五六人海水浴をしていましたが、為吉が、ここに来ていることに気がつきませんでした。
 為吉は暫《しばら》く岸に立って沖を眺《なが》めていましたが、やがて一番左の端《はし》の自分の家《うち》の舟の纜《ともづな》を引っ張って飛び乗りました。船が揺れた拍子に、波のあおり[#「あおり」に傍点]を食って、どの舟も一様にゆらゆらと小さな動揺を始めました。為吉は舳《へさき》へ行って、立ったまま沖を眺めました。
「矢張《やっぱ》り白山《はくさん》が見える!」
 こう彼は口の中でつぶやきました。青い海と青い空との界《さかい》に、同じような青の上に、白い薄いヴェールを被《かぶ》ったような、おぼろげな霞《かす》んだ色に、大きな島のように浮んでいました。白い雲が頂《いただき》の方を包んでいました。
 為吉は心をおどらせました。白帆が二つ三《みっ》つその麓《ふもと》と思われるところに見えました。じっと見つめていると、そこから大風《おおかぜ》が吹き起り、山のような大浪《おおなみ》が押し寄せて来そうな気がしました。あの白帆が、だんだんこちらへ
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