風に追われて来て、真正面《まとも》にこの村の岬《みさき》へ吹きつけられ、岩の上に打ちあげられて、そこに難破するのではなかろうかと為吉は自分で作った恐怖におそわれるのでした。漫々として浪一つ立たない静かな海も、どこかその底の底には、恐ろしい大怪物がひそんでいて、今にも荒れ出して、天地を震撼《しんかん》させそうに思われました。耳をすますと遠い遠い海のかなたが、深い深い海の底に、轟々《ごうごう》と鳴り響いているような気がするのでした。
ふと対岸の福浦岬の上にあたって、むくむくと灰色の古綿のような雲が上《のぼ》って来たのを見とめた時、為吉は、「南東風《くだり》だ!」と思わず叫びました。ぬらっとして、油をまいたような平《たいら》かな海面がくずれて、一体に動揺を始めたようでした。入江の出口から右の方に長く続いている小《こ》が崎《さき》の端《はし》が突き出ている、その先きの小島に波が白く砕け始めるようになって来ました。鴎《かもめ》が七八羽、いつの間にか飛んで来て、岬の端に啼《な》きながら群れ飛んでいました。ずっと沖の方が黝《くろず》んで来ました。生温《なまぬる》い風が一陣さっと為吉の顔をなでました。
一心に沖を見ていた為吉は、ふと心づいてあたりを見廻《みまわ》しました。浜には矢張《やは》り誰もいませんでした。何の物音もなく、村全体は、深い昼寝の夢にふけっているようでした。鳶《とび》が一羽ものものしげに低く浜の方に翔《かけ》っていました。
為吉はまた沖を眺めました。白山は益々《ますます》はっきりして来ました。さっきの白帆が大分《だいぶ》大きくなって、しまき[#「しまき」に傍点]が沖の方からだんだんこちらに近づいて来ました。あのしまき[#「しまき」に傍点]がこの海岸に達すると、もう本物の南東風《くだり》だ、もう、それも十分《じっぷん》と間《ま》がない、――白山、南東風《くだり》、難破船、溺死《できし》――、こういう考《かんがえ》がごっちゃになって為吉の頭の中を往来しました。誰か死ぬというような思《おもい》が、ひらめくように起りました。胸が何物かに引きしめられて、息苦しいような気さえして来ました。何を思う余裕もなく、為吉は刻一刻に荒れて来そうに思われる海の上を見つめていました。自分が今どんなところにいるかということも忘れてしまっていました。
じっと耳をすましていると、どこかに助けを呼び求めている声が空耳に聞えて来るのでした。幾人《いくたり》も幾人《いくたり》も、細い悲しげな声を合せて、呼んでいるように為吉の耳に聞えました。何だか聞き覚えのある声のようにも思われました。一カ月|前《まえ》に難船して死んだ村の人達の声のような気もしました。為吉は身をすくめました。糸を引くような細い声は、絶えたかと思うと、また続きました。その声はどこか海の底か、空中かから来るような気がしました。為吉は一心になって耳をすましました。
いつの間にか入江の口にも波が立って来ました。自分の乗っている船腹に打ちつける潮《しお》のぴたぴたする音が高くなって、舟は絶えず、小さな動揺を続けました。
突然、恰《あだか》もこれから攻めよせて来る海の大動乱を知らせる先触れのよう、一きわ、きわだった大きな波が、二三|畝《うね》どこからともなく起って、入江の口へ押しよせました。それが次第に近寄って、むくむくと大蛇《だいじゃ》が横に這《は》うように舟の舳《へさき》へ寄って来たかと思うと、舳を並《なら》べていた小舟は一斉《いっせい》に首をもたげて波の上に乗りました。一|波《ぱ》また一|波《ぱ》、甚《はなはだ》しい動揺と共に舷《ふなばた》と舷とが強く打ち合って、更に横さまに大揺れに揺れました。
「わあッ!」という叫び声がしたかと思うと、もう為吉の姿は舳に見えませんでした。最後の波は岸に打ちあげて、白い泡《あわ》を岸の岩の上に残して退きました。
午後三時|頃《ごろ》の夏の熱い太陽が、一団の灰色雲の間からこの入江を一層《いっそう》暑苦しく照らしていました。鳶が悠々《ゆうゆう》と低い空を翅《かけ》っていました。
夕暮方に、この浜には盛んな藁火《わらび》の煙があがりました。それは為吉の死骸《しがい》をあたためるためでした。為吉の父も母も、その死骸に取りすがって泣いていました。
その頃から空が曇り、浪が高く海岸に咆哮《ほうこう》して、本当の大暴風《おおあらし》となって来ました。
底本:「赤い鳥傑作集」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年6月25日発行
1974(昭和49)年9月10日29刷改版
1989(平成元)年10月15日48刷
底本の親本:「赤い鳥」復刻版、日本近代文学館
1968(昭和43)〜1969(昭和44)年
初出:「赤い鳥」
1920(
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