の光は薄暗く其煙の中に見える。
「どうやら分らんちゃ。屹度《きっと》七海《しつみ》の連中に引張られて飲んどるのじゃろう。」と母は言った。
「今年ゃ七海に神輿《みこし》を買うて、富来《とぎ》祭に出初めやさかい、大方家のお父様ねも飲ましとるに違いないねえ。」
 浅七は炉の中から松葉を二三本取って揃えたり爪で切ったりしながら言った。
「宜い加減に帰りゃいゝのやれど、ほんとね飲んだと来たら我身知らずで困るとこ、……さあ、待っとらんとお前たちゃ先に飯をすまいたらよかろう。いつ帰るやら分らんもの。」と母親はお膳を出しかけた。
「まあもう暫く待って見ましょう。」と恭三は言って、煙にむせて二三度咳をした。
「六平の者共は帰ったかいね。」と浅七が尋ねた。
「六平もまだや、さき方|嚊《かゝあ》さ迎に行ったれどどっちも帰らんわいの。子供を仰山《ぎょうさん》連れとるさかいに大丈夫やろうけれど、あんまり遅いさかいまた子供を放《ほ》っといて飲んで歩くのやないかちゅうて心配しながら行った。」
「あの六平の禿罐《はげかん》も飲助やさかいのう。此前もほら酒見祭を見ね行った時ね、お前様、あの常坊を首馬に載《の》せたなりに田圃《たんぼ》の中へきせ[#「きせ」に傍点]転がったぞかい。」と浅七は恭三に向って話した。
 こんな話をして居る時、外から「御馳走がありますか。」と言って這入って来たものがあった。
「誰様や?」と恭三の母は伸び上つて庭の方を見た。
「おれ様や! おやまア、こりゃ何ちゅう煙たいこっちゃいの、咽喉《のど》ア塞《ふさが》って了うがいの。」
「うむ権六さか。何うも早や蚊でならんとこと。お前様たちの所は何うや?」
「矢張居って困ったもんじゃ。」
 こう言つて家の中を覗いて恭三と浅七の居るのを見て、
「お、お前達は見に行かなんだのか。」
「何を。」と浅七が言った。
「彼等《あちら》はお前様、昨夜は夜祭《おたび》を見ね行くし、明日は角力《すもう》に行かんならんさかい。」
「そうや/\、もう弟様らちは若い衆やさかいの。」
「まあ上らんかいの。」
「えんじゃ、そうして居られん。一寸聞きたいことがあって来たのやがな。」と此人の癖であるが勿体《もったい》らしく前置きして、「どうや此家《こゝ》の親爺様《おやっさま》は帰らっしゃったか。」
「まだや/\、今も其話をしとる所やとこと。」
「そうか。うちの親爺もまだで、あんまり遅いさかい、どうかと思うて来たのやとこ。」
「えーい。そこな親爺様も行ったのかいね。そうかいね、まあ、こりゃ何ちゅうこっちゃ!」
 恭三の母は如何にも意外だという風に言った。
「まことね、あんな身体して居って、程のあった、何う気が向いたか出掛けて行ったわいね。」
「必然家の恭さんと一緒に飲んどるんやろう。」と浅七が口を入れた。
「そうかも知れん。」と権六の細君が言って、少し気を変えて、「今年の祭は大変賑やかやったそうな、何でも神輿が二十一台に大旗が三十本も出たといね。」
「えいそうかいね、何んせ近年にない豊作やさかい。」
「おいね、然《そ》う言うて家の親爺も、のこ/\と出掛けて行ったのやとこと。もう帰りそうなもんじゃがのう。」
「それでも其家《そこ》の親爺様は幾何《いくら》飲んでも、家の親爺の様に性根なしにならんさかい宜いけれど。」
「そうでも無いとこと、……まあもう暫く待って見ましょう。」
 こう言って権六の細君は帰った。
 それから暫くしてから隣りの六平が子供を連れて帰って来た。先刻迎いに行った女房とは途《みち》が違って遇《あ》わなかったということだった。
「可愛相に、お前はまた何で浜通り来なんだがいの?」と恭三の母は女房に同情を寄せた。
「私もそう思うたのやれど、山王の森まで見に行ったもんやさかい、あれから浜へ戻るのが大変やし、それに日も暮れたもんで内浦通来たのやわいね。」と当惑したという樣子であった。
「そりゃそうと、うちの親爺に遇わなんだかいの。」
「あのう、神輿様が町尽《まちはず》れに揃わっしゃった時ね、飛騨屋の店に権六の親爺様と一緒でござったが、それから知らんなね。」
 六平は引返して女房を迎いに行って来るから子供を暫く見て居て呉れと頼んで行った。三人の子供は恭三の家へ入って炉の傍で土産《みやげ》の饅頭《まんじゅう》を喰い始めた。六つになる女の子が餡《あん》がこぼれて炉の灰の中へ落ちたのを拾って食べた。恭三は見ぬ振りをして横を向いた。
 三十分程たって六平は女房と一緒に帰って来た。恭三の父はまだ帰らなかった。併《しか》し六平の女房と村の入口まで一緒に来たことは女房の話で分った。
 六平の女房が、富来の町から八町程手前の小釜の森の下まで来た時、恭三の父は只一人暗がりに歌を唄いながら歩いて居た。もう此時分は祭見物に行ったものは大方帰って了って、一里の浜路には村の者とは誰にも遇わなかった。亭主や子供に遇わないので如何《どう》したことかと心配しながら淋しいのを堪えて小釜の森まで来た。此処は昔から狐が出るので有名な所である。六平の女房は淋しい淋しいと思いながら行くと向うの方から歌声がするので非常に吃驚《びっくり》した。そしてそれが恭三の父であったので尚更驚いた。恭三の父は足元も危い位に酔って居た。六平の女房を見ると突然、「貴様何しに来た?」と呶鳴ったので女房はヒヤッと飛び上ったそうである。子供を迎いに来たのだと言うと、「馬鹿! 今時分まで何して居るもんか、疾《と》うに帰って了った。富来にも誰も村の者は居らんさかい帰れ帰れ。」と言った。
「己りゃ今時分まで一人何して居ったと思うかい。ふむ、こう見えても一寸も酔って居らんぞ。己れはな。村の奴等が皆帰ったかどうか、ちゃーんと見極《みきわ》めて帰ってきたのじゃ、いくら酔うて居っても、おれは貴様、もしもの事があってはと思うて今まで残って居ったんじゃ。もう富来には誰も居らんぞ。さあ帰ろ帰ろ。」
 六平の女房は後について歩いた。恭三の父は幾度も幾度も仆《たお》れかゝった。
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「あ、酔うた/\、五勺の酒に……
          一合飲んだら…………」
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と唄うかと思うと、
「こら! 嬶さ! 六平の嚊あ! 貴様何しに来た?」といったり、「やあ、小釜の狐、赤狐! 欺されたら欺して見い。こら、貴様等に……馬鹿狐奴が、へむ。」などと出放題の事を言ったりした。
 斯んな風で村の入口まで一緒に来たが、それからは六平の女房に先に帰れと言って承知しなかった。一緒に帰っては間男でもしたと思われるから不可《いけ》ないって戯談を言って、如何言っても動かなかった。こう言つて二人が争って居る所へ六平が行った。六平も種々にすゝめて一緒に連れて帰ろうとしたが、新道の橋の上に坐って居て如何しても動かなかった。多分迎いに来て貰ったと人に思われるのが気に入らぬのだろうと皆が言った。浅七が提灯《ちょうちん》をつけて裏口から出掛けたのを、母は呼止めてやめさした。十分間も経ってから父は帰って来た。
「帰ったぞ、おい旦那様のお帰りやぞ。」と上機嫌に裏口から入って来た。
「お帰り。」
 と母も浅七も同時に言った。浅七は庭へ下りて洗足の水を汲んだ。
「さあ洗え。」
 と父は上り段に腰掛け仰向《あおむ》けになって了った。浅七は草鞋《わらじ》の紐を解いて両足を盥《たらい》の中へ入れさせた。母は冷《さ》めかけた汁の鍋を炉に吊して火を燃やした。恭三は黙って立膝の上に顋《あご》をもたせて居た。
「恭三! 貴様は何で己の足を洗わんか。」と父は呶鳴った。
 恭三は意外に思ったが、何にも言わずに笑って居た。
「己れが帰ったのに足位洗わんちゅう法があるか、浅七がこうして洗うて居るのに、さあ片足ずつ洗え。」
 恭三は直ぐ父の命令に服しかねた。けれども又黙って居る訳にも行かなかった。勿論《もちろん》父は真面目にこんな事を言うのだとは思わない。が如何に父が酔って居ても其儘に笑って済ますことは出来ぬと思った。
 父は酔った時に限って恭三に向って不平やら遠回しの教訓めいたことを言うのを恭三は能く知って居た。父もまた素顔で恭三に意見することの出来ぬ程恭三は年もとり教育もあることを知って居た。それで時々酔に托して婉曲な小言を言うことがあるのであった。それは多くの場合母に対する義理からであった。母は恭三の実母ではない。だからこの場合に於ても実子の浅七がこうして父の足を洗って居るのに、恭三が兄だからとて素知らん顔して居ると思われるが心外だという父の真情からそう言ったのかも知れぬ。父は恭三一人あるために今日までどれ程母に気兼をしたか知れない。恭三はよく之を知って居た。こうして酒に酔って居る時に却《かえっ》て溢れる様に父の真情が出るのを恭三は幾度も経験して居た。或は又酔うて居るのを幸いに二人の息子に足を洗わせて、其所に一種の快味を味《あじわ》おうという単純な考からであるかも知れぬと思った。併し恭三は父が如何《いか》に酔っても全く我を忘れることはないと思って居た。他の人にはそう見えても恭三のみには如何《どう》してもそう思われなかった。無学無知な一漁夫に過ぎぬけれど酔うた時には何となく感慨の深いことを言う。父としての情は決して単なる溺愛的のものではない。淋しい様な悲しい様な哀れな父の心情が強い言葉の裏にかくれて居る。之れを恭三は能く味い知って居た。そして恐らく之を知って居るものは恭三の外にあるまい。恭三は酔うた父に対すると常に一種悲痛な感を味うのであった。今父が恭三に足を洗えと言ったが、全く彼に洗わす積りで言ったのでなかろうとは思つたものの、此の場合にうまくとりなすには如何してよいか一寸分らなかった。
「私は弟に頼んだんです。浅七、おれの代理をつとめて呉れよ。」と彼は深く考えもせずに言った。
 これを聞いて父は大に満足したという風であった。
「そうか/\、そんなら宜い。」
 こう言つて妙な声で唄い出した。
 足を洗ってからも尚お暫く父は上らなかった。
「さあ、宜い加減にして上ろうぞ。」と母はお膳を並べた。
 皆膳に向った。けれども父は如何にしても箸を取ろうとはしなかった。
「恭三、お前は己の帰るのを飯も食わずに待って居ったのか。」
「え。」
「浅七もか?」
「あい、待って居ました。」
「そうか、よく待って居った。さあ己りゃ飯を食べるぞ、いゝか。」
「さあ一緒に食べんかいねえ。」と母は箸箱を手に取った。
 父は「ふふーむ。」と笑って居てなか/\膳に向わなかった。囲炉裏に向って、胡座《あぐら》の膝に両手をさしちがえて俯向《うつむ》き加減になって、つまった鼻をプン/\言わせて居た。酒に酔うと何時でも鼻をつまらせるのが癖であった。
「さあ、早く食べんかいねえ。」と母は又促した。
「おりゃ食いとうない。お前等先に食え。」
「そんなことを言わんと、一緒に食べんかいね、此人あ、皆な腹減らかいて待って居ったのに。」
「お、そうか/\、有り難い。今食べるぞ。」と言ったが中々食べかけなかった。
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「山高帽子が流行して、
    禿げた頭が便利だね。オッペケペ……」
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 こう唄って「ハハゝゝ」と大声に笑った。
 母はもどかしそうに、
「もう関わんと先に食べんかの」と恭三に向って言った。
「お父さん、少し食べないと、夜またお腹《なか》が減《す》きますぞ。」と恭三はすゝめた。
 父は一寸頭だけふり向けて恭三の顔をじろりと眺めた。充血した眼は大方ふさぎかゝって居た。てか/\と赤光に光った額には大きな皺が三四筋刻んだ様に深くなって居るのが恭三の眼にとまった。
「さあ早う、お汁が冷《さ》めるにな。」
 母は自烈体《じれった》そうに言って箸を取った。
「うむ……。」と父は独り合点して又笑った。「今日は本当ね、面白い祭じゃった。」
「一寸祭の話でもして聞かせて下さい。」と恭三は飯を盛りながら言った。
「よし/\。」
 父が祭の話をし始める時分には皆な飯を済まして居た。それでもまだ彼は食べかけなかった。そして種々と祭の話をした。同じこ
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