恭三の父
加能作次郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)予《かね》て

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大方|端書《はがき》であった。

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1−8−75]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)それ/\
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    手紙

 恭三は夕飯後例の如く村を一周して帰って来た。
 帰省してから一カ月余になった。昼はもとより夜も暑いのと蚊が多いのとで、予《かね》て計画して居た勉強などは少しも出来ない。話相手になる友達は一人もなし毎日毎日単調無味な生活に苦しんで居た。仕事といえば昼寝と日に一度海に入るのと、夫々《それ/\》[#ルビの「それ/\」はママ]故郷へ帰って居る友達へ手紙を書くのと、こうして夕飯後に村を一周して来ることであった。彼は以上の事を殆《ほとん》ど毎日欠かさなかった。中にも手紙を書くのと散歩とは欠かさなかった。方々に居る友達へ順繰《じゅんぐり》に書いた。大方|端書《はがき》であった。彼は誰にも彼にも田舎生活の淋しい単調なことを訴えた。そして日々の出来事をどんなつまらぬ事でも書いた。隣家の竹垣に蝸牛《かたつむり》が幾つ居たということでも彼の手紙の材料となった。何にも書くことがなくなると、端書に二字か三字の熟語の様なものを書いて送ることもあった。斯《こ》んなことをするのは一つは淋しい平凡な生活をまぎらすためでもあるが、どちらかと言えば友達からも毎日返事を貰いたかったからである。友達からも殆ど毎日消息があったが時には三日も五日も続いて来ないこともあった。そんな時には彼は堪らぬ程淋しがった。郵便は一日に一度午後の八時頃に配達して来るので彼は散歩から帰って来ると来ているのが常であった。彼は狭い村を彼方《あちら》に一休み此方《こちら》に一休みして、なるべく時間のかゝる様にして周《まわ》った。そして帰る時には誰からか手紙が来て居ればよい、いや来て居るに相違ないという一種の予望を無理にでも抱いて楽みながら帰るのが常であった。
 今夜も矢張そうであった。
 家のものは今|蚊帳《かや》の中に入った所らしかった。納戸《なんど》の入口に洋灯《ランプ》が細くしてあった。
「もう寝たんですか。」
「寝たのでない、横に立って居るのや。」と弟の浅七が洒落《しゃれ》をいった。
「起きとりゃ蚊が攻めるし、寢るより仕方がないわいの。」と母は蚊帳の中で団扇《うちわ》をバタつかせて大きな欠伸《あくび》をした。
 恭三は自分の部屋へ行こうとして、
「手紙か何か来ませんでしたか。」と尋ねた。
「お、来とるぞ。」と恭三の父は鼻のつまった様な声で答えた。彼は今日笹屋の土蔵の棟上《むねあげ》に手伝ったので大分酔って居た。
 手紙が来て居ると聞いて恭三は胸を躍《おど》らせた。
「えッ、どれッ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」慌てて言って直ぐに又、「何処《どこ》にありますか。」と努めて平気に言い直した。
「お前のとこへ来たのでない。」
「へえい……。」
 急に張合が抜けて、恭三はぼんやり広間に立って居た。一寸《ちょっと》間を置いて、
「家《うち》へ来たんですか。」
「おう。」
「何処から?」
「本家《おもや》の八重さのとこからと、清左衛門の弟様《おっさま》の所から。」と弟が引き取って答えた。
「一寸読んで見て呉れ、別に用事はないのやろうけれど。」と父がやさしく言った。
「浅七、お前読まなんだのかい。」
 恭三は不平そうに言った。
「うむ、何も読まん。」
「何をヘザモザ言うのやい。浅七が見たのなら、何もお前に読んで呉れと言わんない※[#感嘆符二つ、1−8−75] あっさり読めば宜《よ》いのじゃないか。」
 父親の調子は荒かった。
 恭三はハッとした。意外なことになったと思った。が妙な行きがかりで其儘《そのまゝ》あっさり読む気にはなれなかった。それで、
「何処にありますか。」と大抵其在所が分って居たが殊更《ことさら》に尋ねた。
 父は答えなかった。
「炉縁《ろぶち》の上に置いてあるわいの。浅七が蚊帳に入ってから来たもんじゃさかい、読まなんだのやわいの。邪魔でも一寸読んで呉んさい。」と母は優しく言った。
 恭三は洋灯を明るくして台所へ行った。炉縁の角の所に端書と手紙とが載って居た。恭三は立膝のまゝでそれを手に取った。
 生温い灰の香が鼻についた。蚊が二三羽耳の傍で呻《うな》った。恭三は焦立《いらだ》った気持になった。呼吸がせわしくなって胸がつかえる様であった。腋の下に汗が出た。
 先ず端書を読んだ。京都へ行って居る八重という本家の娘からの暑中見舞であった。手紙の方は村から一里余離れた富来《とぎ》町の清左衛門という呉服屋の次男で、つい先頃七尾の或る呉服屋へ養子に行った男から来たのであった。彼は養子に行く前には毎日此村へ呉服物の行商に来た男で、弟様《おっさま》といえば大抵誰にも通ずる程此村に出入して居た。恭三の家とは非常に懇意にして居たので、此処《こゝ》を宿にして毎日荷物を預けて置いて、朝来てはそれを担《にな》って売り歩いた。今度七尾へ養子に行ったのについて長々厄介になったという礼状を寄越したのであった。
 恭三は両方共読み終えたが、不図《ふと》した心のはずみで妙に間拍子が悪くなって、何でもない事であるのに、優しく説明して聞かせることが出来にくいような気持になった。で何か言われたら返事をする積りで煙草に火をつけた。
 蚊が頻《しき》りに攻めて来た。恭三は大袈裟《おゝげさ》に、
「非道い蚊だな!」と言って足を叩いた。
「蚊が居って呉れねば、本当に極楽やれど。」と母は毎晩口癖の様に言うことを言った。
 恭三は何時《いつ》までも黙って居るので、父は、
「読んだかい?」
「え、読みました。」と明瞭《はっきり》と答えた。
「何と言うて来たかい。」
「別に何でもありません。八重さのは暑中見舞いですし、弟様のは礼状です。」
「それだけか?」
「え、それッ限です。」
「ふーむ。」
 恭三の素気《そっけ》ない返事がひどく父の感情を害したらしい。それに今晩は酒が手伝って居る。それでも暫《しばら》くの間は何とも言わなかった。やがてもう一度「ふーむ」といってそれから独言《ひとりごと》の様に「そうか、何ちゅうのー。」と不平らしく恨めし相に言った。
 恭三は父の心を察した。済まないとは思ったが、さて何とも言い様がなかった。
「もう宜い、/\、お前に読んで貰わんわい、これから……。へむ、何たい。あんまり……。」
 恭三はつとめて平気に、
「このお父さまは何を仰有《おっしゃ》るんです。何も別にそれより外のことはないのですよ。」
 父は赫《かっ》と怒った。
「馬鹿言えッ! それならお前に読うで貰わいでも、己《お》りゃちゃんと知っとるわい。」
「でも一つは暑中見舞だし、一つは長々お世話になったという礼状ですもの。他に言い様がないじゃありませんか。」
「それだけなら、おりゃ眼が見えんでも知っとるわい。先刻《さきがた》郵便が来たとき、何処から来たのかと郵便屋に尋ねたのじゃ、そしたら、八重さ所からと、弟様とこから來たのやと言うさかい、そんなら別に用事はないのや、はゝん、八重さなら時候の挨拶やし、弟様なら礼手紙をいくいたのやなちゅうこと位はちゃんと分っとるんじゃ。お前にそんなことを言うて貰う位なら何も読うで呉れと頼まんわい。」
「だって……」
「もう宜い、宜いとも! 明日の朝浅七に見て貰うさかい。さア寝て呉れ、大《でか》い御苦労でござった。」と皮肉に言った。
 こう言われると恭三も困った。黙って寝るわけにも行かぬし、そうかと言って屈従する程淡白でもなかった。こゝで一寸気を変えて、「悪うございました。」と一言謝ってそして手紙を詳しく説明すれば、それで何の事もなく済んで了《しま》うのであることは恭三は百も承知して居たが、それを実行することが頗《すこぶ》る困難の様であった。妙な羽目に陥って蚊にさされながら暫くモジモジして居た。
「じゃどう言うたら宜いのですか?」と仕方なしに投げだす様に言った。
「己りゃ知らんない。お前の心に聞け!」
 今まで黙って居た母親は此時始めて口を出した。
「もう相手にならんと、蚊が食うさかい、早う蚊帳へ入らっしゃい。お父さんは酔うとるもんで、又いつもの愚痴が始まったのやわいの。」
「何じゃ! おれが酔うとる? 何処に己りゃ酔うて居るかいや。」
「そうじゃないかいね、お前様、そんなね酔うて愚痴を言うとるじゃないかね。」
「何時愚痴を言うたい? これが愚痴かい。人に手紙を読うでやるのに、あんな読方が何処の国にあろい?」
「あれで分ってるでないかいね、執拗《しつこ》い!」
「擲《たゝ》きつけるぞ! 貴様までが……」と父は恐しい権幕になった。枕でも投げようとしたのか、浅七は、
「父様《とうと》何するがいね、危い。……この母様《かあか》また黙って居らっされかア。」と仲裁する様に言った。
「まるで心狂《しんきょう》のようやが。」と母は稍々《やゝ》小さな声で言った。
 奥の間の方から猫がニャンと泣いてのそ/\やって来た。それで父親は益々《ます/\》癪《しゃく》に触ったと見えて、
「屁糞喰らえ!」と呶鳴《どな》りつけた。
 母と弟とはドッと笑い出した。恭三は黙って居った。猫は恭三の前に一寸立ち止って、もう一度ニャンと啼いてすと/\と庭に下りて行った。父親は独言の様に、
「己りゃこんな無学なもんじゃさかい、愚痴やも知れねど、手紙というものはそんなもんじゃないと思うのじゃ。同じ暑さ見舞でも種々書き様があろうがい。大変暑なったが、そちらも無事か私も息災《そくさい》に居る。暑いさかい身体を大切にせいとか何とか書いてあるじゃろうがい、それを只だ一口に暑さ見舞じゃ礼手紙じゃと言うた丈では、聞かして貰う者がそれで腹がふくれると思うかい。お前等みたいに眼の見える者なら、それで宜いかも知れねどな、こんな明盲には一々詳しく読んで聞かして呉れるもんじゃわい。」大分優しく意見する様に言った。
 恭三も最早争うまいと思つたが、
「だってお父様、こんな拝啓とか頓首とかお定《きま》り文句ばかりですもの、いくら長々と書いてあっても何にも意味《わけ》のないことばかりですから、そんなことを一々説明してもお父様には分らんと思ってあゝ言ったのですよ。悪かったら御免下さい。」
「分らんさかい聞くのじゃないか。お前はそう言うがそりゃ負惜しみというものじゃ、六かしい事は己等に分らんかも知れねど、それを一々、さあこう書いてある、あゝ言うてあると歌でも読む様にして片端から読うで聞かして呉れりゃ嬉しいのじゃ。お前が他人に頼まれた時に、それで宜いと思うか考えて見い。無学な者ちゅう者は何にも分らんとって、一々聞きたがるもんじゃわい。分らいでも皆な読うで貰うと安心するというもんじゃわい。」と少し調子を変えて、「お前の所から来る手紙は、金を送って呉れって言うより外ね何もないのやれど、それでも一々浅七に初めから読ますのじゃ。それを聞いて己でも、お母さんでも心持よく思うのじゃ。」
「そりゃ私の手紙は言文一致《はなし》で、其儘《そのまま》誰が聞いても分る様に……」と皆まで言わぬ中に、
「もう宜い※[#感嘆符二つ、1−8−75]」と父親は鋭く言い放った。そして其後何とも言わなかった。
 恭三は何とも言われぬ妙な気持になって尚お暫くたって居たが、やがて黙って自分の部屋へ行った。

   祭見物

「お父さんな、まだ帰らんのか。」と浅七は外から這入《はい》って来た。家の中は暗かった。囲炉裏《いろり》の中には蚊遣《かやり》の青葉松が燻《いぶ》って居た。
「まだや。」と母親は漬物を刻みながら無頓着に答えた。
「何ちゅう遅いな、皆もう帰ったのに。」
「もう間がないだろうよ。」と恭三は燃えかゝる松葉を火箸で押えながら言った。煙は部屋中になって居る。洋灯
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