段に腰掛け仰向《あおむ》けになって了った。浅七は草鞋《わらじ》の紐を解いて両足を盥《たらい》の中へ入れさせた。母は冷《さ》めかけた汁の鍋を炉に吊して火を燃やした。恭三は黙って立膝の上に顋《あご》をもたせて居た。
「恭三! 貴様は何で己の足を洗わんか。」と父は呶鳴った。
 恭三は意外に思ったが、何にも言わずに笑って居た。
「己れが帰ったのに足位洗わんちゅう法があるか、浅七がこうして洗うて居るのに、さあ片足ずつ洗え。」
 恭三は直ぐ父の命令に服しかねた。けれども又黙って居る訳にも行かなかった。勿論《もちろん》父は真面目にこんな事を言うのだとは思わない。が如何に父が酔って居ても其儘に笑って済ますことは出来ぬと思った。
 父は酔った時に限って恭三に向って不平やら遠回しの教訓めいたことを言うのを恭三は能く知って居た。父もまた素顔で恭三に意見することの出来ぬ程恭三は年もとり教育もあることを知って居た。それで時々酔に托して婉曲な小言を言うことがあるのであった。それは多くの場合母に対する義理からであった。母は恭三の実母ではない。だからこの場合に於ても実子の浅七がこうして父の足を洗って居るのに、恭三が兄だからとて素知らん顔して居ると思われるが心外だという父の真情からそう言ったのかも知れぬ。父は恭三一人あるために今日までどれ程母に気兼をしたか知れない。恭三はよく之を知って居た。こうして酒に酔って居る時に却《かえっ》て溢れる様に父の真情が出るのを恭三は幾度も経験して居た。或は又酔うて居るのを幸いに二人の息子に足を洗わせて、其所に一種の快味を味《あじわ》おうという単純な考からであるかも知れぬと思った。併し恭三は父が如何《いか》に酔っても全く我を忘れることはないと思って居た。他の人にはそう見えても恭三のみには如何《どう》してもそう思われなかった。無学無知な一漁夫に過ぎぬけれど酔うた時には何となく感慨の深いことを言う。父としての情は決して単なる溺愛的のものではない。淋しい様な悲しい様な哀れな父の心情が強い言葉の裏にかくれて居る。之れを恭三は能く味い知って居た。そして恐らく之を知って居るものは恭三の外にあるまい。恭三は酔うた父に対すると常に一種悲痛な感を味うのであった。今父が恭三に足を洗えと言ったが、全く彼に洗わす積りで言ったのでなかろうとは思つたものの、此の場合にうまくとりなすには如何してよいか一寸分らなかった。
「私は弟に頼んだんです。浅七、おれの代理をつとめて呉れよ。」と彼は深く考えもせずに言った。
 これを聞いて父は大に満足したという風であった。
「そうか/\、そんなら宜い。」
 こう言つて妙な声で唄い出した。
 足を洗ってからも尚お暫く父は上らなかった。
「さあ、宜い加減にして上ろうぞ。」と母はお膳を並べた。
 皆膳に向った。けれども父は如何にしても箸を取ろうとはしなかった。
「恭三、お前は己の帰るのを飯も食わずに待って居ったのか。」
「え。」
「浅七もか?」
「あい、待って居ました。」
「そうか、よく待って居った。さあ己りゃ飯を食べるぞ、いゝか。」
「さあ一緒に食べんかいねえ。」と母は箸箱を手に取った。
 父は「ふふーむ。」と笑って居てなか/\膳に向わなかった。囲炉裏に向って、胡座《あぐら》の膝に両手をさしちがえて俯向《うつむ》き加減になって、つまった鼻をプン/\言わせて居た。酒に酔うと何時でも鼻をつまらせるのが癖であった。
「さあ、早く食べんかいねえ。」と母は又促した。
「おりゃ食いとうない。お前等先に食え。」
「そんなことを言わんと、一緒に食べんかいね、此人あ、皆な腹減らかいて待って居ったのに。」
「お、そうか/\、有り難い。今食べるぞ。」と言ったが中々食べかけなかった。
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「山高帽子が流行して、
    禿げた頭が便利だね。オッペケペ……」
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 こう唄って「ハハゝゝ」と大声に笑った。
 母はもどかしそうに、
「もう関わんと先に食べんかの」と恭三に向って言った。
「お父さん、少し食べないと、夜またお腹《なか》が減《す》きますぞ。」と恭三はすゝめた。
 父は一寸頭だけふり向けて恭三の顔をじろりと眺めた。充血した眼は大方ふさぎかゝって居た。てか/\と赤光に光った額には大きな皺が三四筋刻んだ様に深くなって居るのが恭三の眼にとまった。
「さあ早う、お汁が冷《さ》めるにな。」
 母は自烈体《じれった》そうに言って箸を取った。
「うむ……。」と父は独り合点して又笑った。「今日は本当ね、面白い祭じゃった。」
「一寸祭の話でもして聞かせて下さい。」と恭三は飯を盛りながら言った。
「よし/\。」
 父が祭の話をし始める時分には皆な飯を済まして居た。それでもまだ彼は食べかけなかった。そして種々と祭の話をした。同じこ
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