定にしていたが、割合藪も少なく、愉快な斜滑降ができた。川床へ降りてから地図を見て、道はもっと上流だったことがわかり、二、三町登って行くうち、真川の小屋は随分大きいのですぐ見つかった。今夜はすばらしい星月夜で、ランタンもいらぬくらいに明るく非常に助かった。小屋は東南側のものを使用した。筵の破れたのが五、六枚あるきりで寒かった。
真川にはところどころスノウ・ブリッジがあったので難なく渡れた。渡るとすぐ一〇メートルほど、急な藪があってスキーをぬいだが、その上は平らであった。右に谷を見下しながら登って行くうち漸次急な斜面になった。この辺は樅の繁った林だったが、帰りにはすばらしい滑降のできるところだと思った。この大きな斜面を登るとちょっと平らになり、すぐまた少しのあいだ急になったが、それを抜けるとそれこそ広くて緩い真白な、すばらしい斜面が太郎平までつづいていた。この附近から雪は風のため締っていてスキーは少しも沈まない。太郎平から上ノ岳の小屋までも、クリスマス・ツリーの点在した気持のよい雪原だった。上ノ岳の小屋は風のため、大部分露出していた。初め西側の窓から入って、南側の戸を内から開けて荷物を入れた。小屋の中は一尺くらい雪が積っていたが、雪は締っていて靴に着かず気持がよかった。寝床は二階にした。そこへは入口の戸の桟《さん》を登って行けた。二階は太い梁《はり》が二本、三尺くらい離れてあるだけだ。その上に枯れた偃松の束がたくさん並べて置いてある。そこには蒲団と毛布が箱の中に入れてあって、その上に蓙《ござ》が冠せてあった。それを引出し、偃松の上に蓙を敷き蒲団四枚と毛布を使って寝床を作った。雪が小屋の上の方からも入ってくるので、蒲団の上に蓙を冠せて寝た。温度はあまり下らなかったので温かだった。ただ二階への上下はうるさかった。飯はアルコールを用い薪は使わなかった。もちろんぬれた物は乾かせなかったが、さほど不自由ではなかった。
二日は終日荒れた。三日は午後から霧が晴れ出したので薬師岳へ登る。太郎平まではズーと下りだが、傾斜が緩いためかあまり飛ばなかった。この附近の木は皆すばらしいクリスマス・ツリーになっていた。薬師の取付きも雪があるため夏のようにいやな谷もなく、どこでも自由に登れた。急なところをちょっと登ると、もう木もまばらな緩い斜面で、粉雪が二六〇〇メートル附近までつづいていた。二六五八メートルからアイゼンを履く。頂上まで広い平凡な尾根だった。この附近から見た冬山の大観はすばらしかった。薬師堂附近の雪庇は平凡な形のもので、その上を歩いても落ちなかった。下りはちょっとではあったが、なかなか愉快な滑降ができた。薬師や黒岳―赤牛の尾根等がアーベント・グリューエンに燃えているのを眺めながら上ノ岳の小屋へ帰って行った。小屋に着いた頃は、日は白山別山のところへ沈んで、月が薬師の北尾根の上に出ていた。
四日は強い風の音がするので、また荒れているのかと思って出てみると、青空ではないがよく山が見えた。東の空は朝焼けがしているので悪くなるなと思ったが、荒れたら黒部五郎の小屋へ避難することにして出発した。上ノ岳の三角標石は完全に露出していた。ズーと尾根通りスキーで行く。黒部側は中腹に広々とした平がつづいているので、風の特に強いときはその辺を巻いて行ったら楽に違いないと思った。黒部五郎岳の二つ手前に、小さい岩場があったので、そこでスキーを脱ぐ。アイゼンで歩いてもさほど困難ではなかったから、そのまま黒部五郎岳まで進んで行った。黒部五郎岳は登りも降りも平凡な尾根で雪庇もなかった。二五八〇メートル附近からスキーを履き、左側の谷へ降る。上の方は面白く辷ったが、思ったほど長い滑降はできなかった。黒部五郎の小屋は気持よく出ていた。寝具さえあったら一日や二日は泊ってスキーを楽しみたいと思った。黒部五郎側も、三俣蓮華側も木もまばらなすばらしい斜面ばかりだから、三俣蓮華の尾根へは夏道よりもズーと北側の斜面を登った。二五五〇メートルくらいでアイゼンを履く。雪庇もない緩い尾根だ。三俣蓮華の三角標石は露出していた。頂上を越してちょっと降ってからスキーを履く、三俣蓮華の小屋まで、二カ所ほど平らなところがあったが、思ったよりよく辷って愉快だった。小屋は完全に雪にかこまれて、棟の部分がちょっと出ているだけだった。窓を掘り出すのに鷲羽岳側が割合楽そうだったので、ピッケルとスキーを使ってそこを掘った。雪は相当緊っていたが、それでも壁の附近はやわらかだった。しかし掘ったところには窓はなかった。暗くなってきたし雪も降り出すので、新しいところを掘る元気もなく、壁を一尺五寸四角ほど破ってしまった。窓は皆東南側ばかりだった。しかも内から針金で引張ってあったので、結局破らねばならなかったと思う。破った窓は小さかったので、ルックザックは品物を少し出さぬと入らなかった。身体もやっと辷り込めるくらいで、出るときには困った。破ったところは、翌日窓を掘り出して後、できるだけ完全に修繕した。小屋の内には不思議に雪が入っていなかった。蒲団は棒に釣りかけてあった。その上には蓙が冠せてあった。それを引き下して使った。あたたかいことは上ノ岳の小屋等とは比較にならない。それに上ノ岳の小屋のように二階へ上下する不便がないだけでも楽だった。ただスコップ等を、小屋の屋根あたりに柱を立ててそれに掛けておいてくれるとよいと思った。その後、小屋の主人に、壁板を破ったこと等を話したとき、それを頼んではおいたが。
五日は終日雪が降った。六日は朝、霧が晴れてゆくのでよくなると思って出たが、何よりも空が曇っていたのが悪く、吹雪になってしまった。鷲羽岳の登りは雪のかたいところが多く、意外に時間がかかった。ワリモ岳は岩をさけて下を巻いたら楽だった。物凄い霧で方角もよくわからず、どんどん歩いているうち、赤岳も知らずに過ぎ黒岳の岩場にぶつかって驚いた。荷物を置いて黒岳の頂上へ往復する。一番初めの岩場がちょっと悪かった。ここは帰りに西側の雪の斜面を巻いてみて、雪の方が楽だと思った。それからは平凡な岩尾根だった。黒岳の頂上も過ぎ、もう一つ北の峰まで行った。そこに三角点があるから。けれども、例の毀れた柱が三本あるきりで、三角標石は見えなかった。それでもこんどの行程の最高峰だったので、ベルグ・ハイルを三唱した。引返してから、赤岳の東尾根をさがすのに相当迷った。やっと取付いたが、ここがまた、短いが、一番悪いところだった。東沢側は大したことはなかったが、ワリモ沢側は物凄かった。悪いところは荷物とスキーを別々にはこんだりして、随分時間を食った。全部尾根通しに東沢側ばかりを歩いた。悪場を過ぎてからも、上り下りが意外に悪く、かつ眺望がないため一層疲れた。風の非常に強いときなどは、スキーで東沢の谷へ降りて、ズーと下を巻いた方が楽に違いないと思った。野口五郎岳の三角標石は、完全に露出していた。頂上からちょっと縦走して行くと尾根にくぼんだところがある。そこでちょっと休むことにして、雪の孔を掘り、カッパを上に張って潜り込んだ。孔の中の温度を計ろうと思って寒暖計を出していたが、一度も計らずに紛失してしまった。孔の中はあたたかだったが、二時間ほどで出発した。そのうち霧が晴れて月が出たので、すばらしい冬の夜の山を味うことができた。風は相変らず強く、立止っていることが多かった。皮の手袋がぬれたので、毛メリヤスの手袋にかえたが、終始指の感覚がなくなるので弱った。やはり風の強いときは、皮の物でないと駄目だ。三ッ岳の三角標石も完全に露出していた。頂上からちょっと行くと左の尾根へ雪庇がつづいているので、それを伝って降った。その尾根は下の方で本尾根と一緒になっているように見えたが、下ってみると大きな谷になっていた。それでも烏帽子の小屋はもうすぐだと思って、元気で引返した。一番さがったところでスキーをはく。樅の林を右に見て、ちょっとしたところを越すとすぐ向うに、烏帽子の小屋が大きく月に照らされていた。小屋は意外にも、風のため土台まで露出していた。窓を開けて中へ入る。小屋の中にも雪は殆んどなかった。蒲団は三俣蓮華の小屋と同様、棒にかけてある。この小屋は風の強いときは寒いに違いないが、寝具があるので大したことはないと思った。
七日はすばらしい快晴で、少々暑かった。小屋の附近はスキーに最もよいところだった。ブナ立尾根も上の方は素敵だった。尾根がやせてから輪カンジキにした。一カ月ほども烏帽子にいたという猟師が一、二日前に下ったので、輪の跡が残っていたが、新雪と風ではっきりしない。猟師が右の方の谷へ下って、また引返しているのだが、冬期はその谷を下るのかと思って、悪いところを下り随分時間を浪費した。初めはいちいち引返したが、そのうち元気もなくなり、迷ったまま夏道より南の尾根を下って行った。そのうち尾根よりも夏道とのあいだの谷がよさそうなのでそれへ入った。この谷は一月五日の雨に、両側から物凄く雪崩が出て、氷のようになっていたので、輪カンジキでは辷り落ちたりした。アイゼンではまた、六日の新雪があって、ひどく潜るところがあった。この谷は悪場はなかったが、凄い雪崩道である。幸いこの日は風もなく、二〇〇〇メートル以下は霧だったので、雪崩は出なかった。だいぶ下ってから、滝があったので、また右の尾根へ取付いたが、藪が多く楽ではなかった。それに下の川の音を滝だと思って右へ右へと巻いたが、いくら巻いても音がするので、思い切って、尾根のように広い谷があったので、それを降りて行ったら難なく濁《にごり》の川原へ出ることができた。冬期でも、烏帽子へは夏道を上下するとのことだ。川原にはまた、猟師の歩いた跡があって、すぐ濁の小屋へ着くことができた。濁の小屋には莚が三枚と畳があるだけで、寝るには寒いので、対岸にある、東信電力の金原氏のところに行って泊めてもらう。非常に親切な方だった。電気炬燵、電気風呂が殊に嬉しかった。
八日は、雪がちらちら降っていた。高瀬の谷は物凄い雪崩が出るだろうと思って心配したが、問題になるような物は出ていなかった。しかも人が始終通るので、歩いた方が早かった。大多和の古田氏のところで、大阪の人が昭和五年の正月に芦峅の案内を連れて信州へ越したと聞いた。そのときの山の状態はどんなだったろう。それを今でも知りたいと思っている。また昭和五年の暮に東京の学生が一人で烏帽子へ往復したという。その努力には驚いた。ブナ立尾根の登りはひどいに違いない。
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初冬の常念山脈
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十一月三十日(昭和五年)晴後雪 六・三五柏矢町 七・四〇―八・〇〇鳥川橋傍茶店朝食 九・二〇大助小屋 一〇・一〇冷沢炭焼小屋 三・〇〇常念乗越沢出合 七・〇〇常念の小屋
十二月一日 晴、強風 八・〇〇常念の小屋 九・〇〇常念頂上 九・三〇―一〇・四〇常念の小屋 一一・四〇横通岳 一・四〇大天井岳 三・四〇―四・〇〇常念の小屋 五・三〇常念乗越沢出合 九・三〇冷沢炭焼小屋
十二月二日 晴 八・三〇冷沢炭焼小屋 一一・三〇豊科
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日本アルプスといわれる山々には九月の終りにもなると、ときおりは雪がやってくる。しかしまだそれほど寒くないので、その後にくるであろう晴れた日に大部分は哀れにもはかなく消えてしまう。だが十月の半ばにもなって、日本アルプスの谷という谷が緋の衣に包まれると、山の頂きもまた日に日に白さを増してくる。そして十一月には木枯らしが吹き、一荒れごとに淋しい落葉の音もまれに、梢《こずえ》越しにははや雪が見え出してくるし、安曇野《あずみの》の村々には冬篭りの用意ができ、どの家にも暖い炬燵が仕切られてくる。ちょうどそのころ六甲山からも遥か彼方に黒々とした山波を越して真白い「氷ノ山」を見出すことができ、山友達からは今シーズン最初の一滑りを白馬や立山からもたらしてくる。もうこうなると山男の心は日本アルプスのどこかの谷か、山へと飛んでしまって、休暇でも残
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