岩場のちょっとしたところが登れなかったので、唐沢岳へ登ってみる。浅間、八ヶ岳、南の山等がアーベント・グリューエンに燃えていて嬉しかった。帰りは雪がパンパンになっていて横辷りに悩む。横尾の岩小屋に八高出身の桑田氏がいたので泊めてもらう。

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四月二日 曇 岩小屋四・三〇 穂高小屋一一・三〇 奥穂の頂一・三〇 一ノ俣七・〇〇
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 桑田氏が奥穂へ登るというので連れて行ってもらう。奥穂の岩場でちょっと参ったが、同氏の切ったステップを辿ってやっと登った。こうして随分苦しんだので奥穂高岳の頂上に立ったときは、霧で眺望はきかなかったが、とても嬉しかった。下りも僕は随分ブレーキになって桑田氏にはお気の毒だった。岩小屋に帰ってからも大変御馳走になった。一ノ俣の小屋はこの日僕一人を待っていてくれた。

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四月三日 快晴 一ノ俣五・三〇 徳本峠一〇・三〇 島々三・三〇
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 とてもいい天気だ。徳本を越すには惜しい日だが、仕方がない。山に登ることが仕事ではないのだから。徳本はスキーをぬいで人の歩いた跡を伝う。岩魚止より下は雪がなかった。

    白馬岳

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四月二八日 晴 四谷八・二〇 白馬尻一二・一〇 白馬頂上四・三五 白馬尻六・〇〇 猿倉七・〇〇
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 二俣には発電所ができるらしく、工事の人がたくさんいる。その水の取入口が猿倉の少し下にあるので、途中までいい道がある。一〇〇〇メートルくらいからスキーを履き、一三〇〇メートルくらいまで登ってから、雪が堅いのでスキーその他不要のものをブナの木の根に置いて行く。川から離れて左側を相当高廻りする。白馬尻には大きな雪崩の跡がある。二日前に降った雪が両側の急な谷から、今、底雪崩を起している。大雪渓は思ったより広く傾斜も緩い。今朝猿倉から登った大学のパーティが痛快に辷って下りてくる。僕はマッチを忘れてきたので、先頭の人に話して一つ貰う。天気がいいので、この辺は靴の上まで潜る。三時頃から強い風が吹き下ろしだした。小雪渓は意外に長く、雪は頂上の小屋の上までもつづいてスキー登山の山として理想的だ。尾根はまっすぐに立って歩けぬほど風が強い。富山平原からネーベル・メーアが押寄せてきて、雲の海の上に立山の連峰がはっきり浮んでいる。白馬の頂きに立ったとき、初めての夏山入りの思い出(蓮華温泉からこの頂きに立ったとき、こんなすばらしい山が日本にもあるのかと驚き、劔を見て槍だと思った頃のこと)が浮んでくる。頸城《くびき》の山もなかなか素敵だ。スキーはなくても下りは早い。スキーを置いたところから少し下ると猿倉の小屋が見つかった。神戸徒歩会の人がトリコニーの鋲靴を履いた案内を連れている。案内に白馬の頂きで黒姫山がわからなかったと言ったら、そんなことはない大雪渓の辺からズッと見えると行った。これではトリコニーが泣きはしないだろうか。そして湯を一杯貰うのさえ礼を言ったが、翌日白馬館で薪代を取られた。

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四月二十九日 晴 猿倉八・〇〇 小日向頂上九・四〇 猿倉一〇・一〇―一一・〇〇 四谷一・三〇
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 天気がいいのでスキーを履いて小日向山に登ってみた。白馬連峰を見るのにいいところだ。帰りは雪が溶けて水分が多く、スキーがあまり辷らぬので嬉しかった。辷ると転ぶからだ。徒歩会の人は二日ともノビニズムを研究していた。帰りに徒歩会の人と附合いをしたら、自動車が二十分遅れて電車に間に合わず、松本で十二時まで待たされた。僕はパートナーとしては恵まれないようだ。
[#地から1字上げ](一九二九・一一)
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一月の思い出

    ――劔沢のこと

 一月のことを思い出すのは僕には耐えられぬほど苦しい。だがそれをどうしても話してしまわなければ、僕は何だか大きな負債を担《にな》っているような気がしてなりません。偶然同じ小屋に臥し、同じ路を歩いた六人の Party と一人の Stranger とのあいだに醸成された感情、そんな些細な、つまらないことをと言ってしまえばそれまでですが、少なくともあのときの僕の不注意と親しみの少ない行動とを思い出すと、その貧しい記憶の残り火を過去の灰の中からかき立ててここに記すことは、僕としての義務であり、またそう努力することが、今はない六人に対する心ばかりの弔意であるとも思われるのです。
 ちょうど去年の暮の三十日の朝、雪の立山に魅せられた僕は、いつものボロ服姿で千垣に着きました。芦峅の佐伯暉光氏のところに寄ってあの人等が先に登られたと聞き少なからず心強く思ったことです。雪は藤橋でもわずか五寸ほどで、材木坂の大部分はスキーをかつぎ、それからも桑名までは雪が少なくて夏道より他はブッシュでとても歩けず、ブナ坂や刈安峠はスキーを脱いだくらいです。しかしあの人等の走跡があっただけに、迷うこともなく、ラッセルもしないですんだわけですから、どんなに楽だったか知れません。このことについては僕は、前にシュプールをつけてくれた人等に対して感謝の念を持ったのみで、その後ときどきこのような立場にある単独登行者に対して、悪意としか思われないほどの非難を聞きますが、そんなことは全く思いおよびもしませんでした。
 小屋に着いたときは四人の人等はみんなストーブのまわりで、スキーや山の話で夢中だったように思います。福松君と兵治君は炊事場の囲炉裏にあたって何かしていました。僕はそこへ行って御馳走になりながら、藤木氏や津田氏の話をしたように思います。夜は僕は囲炉裏の側で兵治君を真ん中にして福松君と三人で一緒に寝たのでした。四人の人等はいつも小屋の中に張ったテントに火鉢を入れて寝られたようです。
 三十一日の朝は霧が深く雪もチラチラ降っていました。福松君が目を覚して天気はどうかと聞いたので、大変な霧だと言ったら、それじゃ駄目だ、三月頃なら頑張ってみるが、今頃はこんな日でも鏡石辺から上は必ず強い風が吹いていて危険だ、など話しました。福松君は風邪を引いていて僕が薬を上げたが、いつもより元気が無かったようです。明るくなってから田部氏と福松君の他は一人ずつスキーの練習に出かけました。小屋より二町ほど西で小さい谷に面したところです。土屋氏が一番熱心のようでした。僕は殆んど見ていて一緒に辷ることは稀でした。昼頃から霧が晴れ鏡石辺から見えるようになったので、福松君を残してみんなで板倉氏の霊を弔いに松尾峠へ行くことになりました。それで僕もついて行ったのですが、だまって挨拶もしないでついて行ったのはいけなかったのです。うっかりしておったのですが、変な奴だと思っていられたようです。追分の小屋でちょっと休んで、いつも僕等が温泉の方をのぞくときに行くようなところから右へ急な斜面を登って松尾峠に着きました。終始兵治君がラッセルしてくれました。このとき一度でも僕が代っていたらどんなにあの人等の気持を親しくしていたか知れないと思わずにはいられません。峠の上でちょっと休んでこれから帰ろうというときになって田部氏が僕に、僕等は僕等だけで写真をとりたいから、すまないが君は先に帰ってくれませんかと言われました。そのとき僕は考えた。今きたところ、あの急斜面、しかも右手温泉側はドカッと落ちているあそこがどうしてスキーの下手な僕に安心して下れようと。今ではあんなところはスキーを脱いで下ればよかろうと思っていますが、あのとき僕はハアと答えたもののあの人等の下られる松尾峠の北斜面を横目にみながら後戻りする力はありませんでした。そこで理由を話して一緒に写真に入るのが困るんだったら僕は写真に写らないようにズッと後から行きますと言えばよかったんだが、それだのに僕にそのただ一言いうだけのほんのちょっとの勇気がどうしても出ないのです。それがいつでもなんです。ほんとに自分でも情なくなるのです。しかしここで彷徨しているのは一層いけないと思って反対の西の方へ尾根を歩いて行ったのです。田部氏がそこらを歩き廻って足跡をつけてはいけないと言われるのを後の方へ聞きながら辷ってしまいました。そのときは別に悪いことをしたとは思いませんでした。あの人等は北斜面を辷られのだし、僕は温泉に下る急な広い尾根になっている真白い斜面を左下に見ながら真西に辷ったのですから。それでかなりあの人等が気を悪くされたことは、思わずにはいられません。今なら冬の立山が何だと思っていますが、あの頃にはほんとに心細くて、経験の深いあの人等についていないと危険だとさえ思い、できるだけあの人等の気を悪くすまいと思っていましたから決して反抗的にしたのではなかったので、自ら慰めてはいますが――。帰りは追分附近から雪が降り出し、皆で登ってきたシュプールをただ一人漕いで弘法に帰りました。小屋の内に入って福松君と二言三言話しているうち、威勢よく声を上げて笑いながら帰ってこられました。そして君のスキーはまるで辷らなかったじゃないかと言う窪田氏の声と、よし覚えておれ急斜面に行ったらうんといじめてやるからと言う田部氏の大きな声等聞えました。それから小屋の中は急ににぎやかになりました。明日は元旦だが、もしお天気がよくなったら登って行かねばならず、ゆっくりお正月気分を味うことができぬと思われたのか、この夜持ってきた餅を炊いてお正月のように賑かな夕食をされました。それで兵治君が僕にも餅を分けてくれました。そして言うには初め自分はこういう者ですから、なにとぞよろしく御願いしますと言って挨拶すればよかったんですよ、まるで知らない人にだまってついてこられると誰だってちょっと不愉快になるのですよ――と親切に言ってくれました。それで僕は初めて自分の不注意に気がつき、名刺を持っていなかったので手帳の紙にR・C・C加藤文太郎と書いてどうかよろしくと言って渡したのです。そのとき窪田氏が「うん」という風にうなずかれたと思います。その夜は福松君が板倉氏の話をしてくれました。それから福松君は昨年三月弘法の下で僕が会ったパーティのなかにおったそうで、あれから後のことや、劒の悪場には自分等がある夏、太い針金を取付けておいたとか、こんどは兵治君が案内するので、それで行けなかったら自分も頑張ってみる等と話しました。
 昭和五年の元旦は霧と雪とで明けました。いつになったら登って行けるのやら。兵治君は無理をすると危険ですぞとよく言ったし、我々案内ですら霧に巻かれると方角がわからず、この小屋の附近で露営したことさえあるんですとも言った。僕が例の斜面の西向の緩い方を辷っていると、土屋、松平、窪田三氏と兵治君がやってきて急な北向きの斜面を辷っておられました。霧が薄くなったとき、代り代りにシネかなんかで他の人等が一緒に辷って下りてくるのを撮影されていました。スキーはどなたも上手でした。土屋氏が松平氏に何々温泉のときよりうんとうまくなったねと言われるのや、東京に帰ったらこれを映写するとき、コンパをやろうじゃないか等の会話が聞えました。それからその谷を北へ渡り尾根に登ってそれを伝い少し東へ行ったところで急に兵治君がやーあそこに兎が寝ているぞと言って小さい谷の中腹を指さしました。見ると、一本の木の根元に雪孔があってそこに兎がいたのです。そこで兵治君が辷って追いかけながら杖を投げたが、当らず、向いの尾根に逃げてしまいました。それを土屋氏が撮影され谷を弘法の方へ渡って、小屋の北側の急斜面で、またみんな熱心にスキーの練習をされました。午後になって霧が晴れ、快晴になったので写真機をとりに小屋に帰ると福松君がこんなときにたくさん写しておきなさい、なにしろ冬の立山だから悪くなったらいつ晴れるか知れないし、いい記念になるんだからと言いました。それで田部氏も土屋氏も大きなカメラを持って出かけられました。僕は水野氏から、同志社の児島氏が正月劔に登られると聞いていたので、今日あたりこられるかも知れぬと思って、桑谷の上まで行ってみました。そして何度か
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