しかしまた彼は「あれほどひどい苦しみをして山からおりてきたんだもの、どうして汽車に間に合わぬことがあろう、神様だってお助け下さるに違いない」と思ったりした。やがて電車は駅前へ着きました。汽車はたしかに構内にいます。そしてAは電車から飛び降りると一目散に駅へ駈込みました。その刹那、汽車は「ピー」と汽笛一声―動き出したではありませんか。そして一生懸命に改札口へ殺到したAは、機械のごとくつめたい駅員にしっかとさえぎられてしまいました。
 そのときの彼の心の中はどんなだったでしょう。――
 彼こそ――一人で山登りはしますが――ほんとうは可哀想なほど――気の弱い男だったのです。
[#地から1字上げ](一九二九.一一)
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冬/春/単独行

    八ヶ岳

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昭和三年十二月三十一日 快晴 茅野六・三〇 上槻ノ木一〇・〇〇 一二・三〇スキーを履く 夏沢温泉四・〇〇
[#ここで字下げ終わり]
 汽車が塩尻に着いた頃は空がどんより曇っているので心配したが、明るくなるにつれていい天気となり諏訪の高原はとても寒い風が吹いていた。茅野の駅に下りて、まだ夜の明けたのを知ら
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