た。
 案内はいろいろと面白い話をしてくれた。兎を手掴みにする話や、つかまえるとニャンニャンと泣くとか、あれでもなかなかかしこく自分の行方をくらますため適当な隠れ場所があったらそれを横目で見ながら、なおしばらくはピョンピョンと飛んで行って後、附近に恐いギャングはいないかと周囲をきょときょと見廻し、やおらその隠れ場所のところまで前の足跡を乱さないように伝い、そこで大きくジャンプしてその孔に飛び込み、決してそこには足跡をつけない等と言った。こうしておくと兎の大敵|貂《てん》等に足跡を伝われても安全だということだ。夕方から気温が下り雲が動き出して天候快復の兆が見えてきた。明日の準備をして早くから床へもぐり込む。

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一月二日 小雪後晴 九・〇〇ブナ小屋 一・三〇弘法小屋 六・〇〇天狗平の小屋
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 今朝は暗いうちから出発する予定であったが、まだ雪が降っているので出足が鈍った。やっと九時頃になってときどき雲が切れて青空が見え出し、はっきり天候恢復の兆が見えたので急ぎ出発する。小屋を出てだいたい左寄りに広いブナ林の中を登って行く。
 雪の少ない年は藪がひどく夏道通りしか登れないが、二、三月頃ならたいていどこでも通れる。称名川は足下はるかに音を立てて物凄く落ち込んでいるので、あまり端を通ることは危険である。この高原にたまった水は主に右手常願寺川へ流れているので、ちょうどこの端が広い尾根の分水嶺になっていて、ここを通ることはうるさい谷等を越したりすることもなく楽である。ブナの小屋から一時間もくるとシジミ坂というちょっとした登りがある。ちょうど地図の一二七〇メートル附近である。
 なおも称名川を見下しながら同じようなブナ林の中を登って行く。シジミ坂よりまた一時間ほどもくると尾根も多少狭くなり、かつ、右にこの高原としては割合大きな谷が現われてくる。すなわちこの谷が桑谷で地図の一四一四・八メートルの三角点の手前にある深さ四〇メートルばかりの谷である。この谷は上で二つに分れ、左の方は短く、かつ、谷は称名川の方へも落ちているので、ここで迷ったら右へ右へと取って、決してこの左の谷へ入ってはならない。
 またここは尾根が細くなる手前でトラバースしないと藪がひどく、尾根も大変複雑になっていて厄介である。桑谷へ下りたら谷をあまり登らず、なるたけ早く右手の手頃な斜面か溝谷を登る方がよい。
 一四一四・八メートル附近は伐採されたものか木もまばらな真白い平原である。この平原をしばらく進んで行くとまたブナ林が現われ、その中を一時間も登ると称名ノ滝の音がドウドウと足元から響いてくる。尾根もやや狭くなり、針葉樹の目立つところを過ぎるとこんどこそ実に広々とした真白な斜面が現われる。これが一六一二メートルの三角点のすぐ下である。
 これを登り切ればすぐ目の前に弘法小屋が見える。しかし今日は霧が深く遠くは見えない。晴れた日ならとてもよい眺めで、南の方には弥陀ヶ原の広い高原を隔て大きく胸を張った薬師岳が実に雄大に見えるし、東の方には鳶山、鷲岳、鬼―竜王、天狗、別山等が見え、大日―早乙女等とともにアーベント・グリューエンに燃えている雄大な景色は立山に登った者に忘れ得ない印象を与える。
 弘法の小屋にはいつでも水が出ているので、中へ入ってコッヘルで甘納豆をたき昼食をする。小屋には寝具、燃料、食糧等備っているので、ここを根拠地として立山へ登ったり、附近の高原をスキーで逍《さまよ》い歩くのは実に楽しくよいところである。そのうえ随分荒れている日でもここからなら安全に下山することができるので、追分や天狗平の小屋より安心である。
 冬期は多く西風が吹くのでそれに向って山を下ってくるのは大変で、ちょっと荒れても室堂や天狗平から出ることができない。弘法の小屋を出て左に浅い谷を見下しながら一五分も進むと、丈の低い針葉樹がまばらに生えた三メートルほどの坂がある。ここを過ぎてしばらく行くと右側に浅い谷が現われてくる。こんどはこの右の谷に沿って進めば一時間半ほどで追分の小屋へ着く。雪は割合しまっていてラッセルは弘法までにくらべるとずうっと楽であった。
 弘法までは樹が繁っているので二月頃には随分深いことがある。追分の小屋には富山電気局の一行が泊っていた。一行も立山へ登ろうと思ってきたのだが、昨日、今日と二日も天気が悪いので諦めて、もう今日は山を下ろうと思いそこまで出たのだが、霧のため方向もわからず今引返したところだと言っていた。しかし天気は全く良い方に変っていて、霧もだいぶ薄くなってきたし、ところどころ青空さえ見える。で、僕は「天気はもうじき良くなりますよ、なんなら僕と一緒に天狗平の小屋へ行きませんか」と誘ってみた。けれど一行はコンディションの悪い人もあるの
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