ラストになっていて、スキーの下手な僕は滑っているときより転んでいるときの方が長かった。谷を下り切ってからも室堂までは時間がかかった。それでも天候がよかったのでひどい目にも遭わず、実に幸運だった。劒岳へ登るのに長次郎谷を往復すれば最も簡単だ。しかし雪崩については充分注意をしなければならぬ。しかもこのルートによる登頂は価値が少なくない。我々はわざわざ劒岳までスキーに行くのではないから、やっぱり尾根を行きたい。二月の終りにもなると天候が真冬とは違ってくる。僕のいた二月二十二日から、三月三日までのあいだに九十時間もつづいて荒れたことがある。そのかわり完全に二日間快晴になったこともあった。温度はかつて知らないほど低いのを計った。雄山の頂上で午前十一時だったのに零下二十一度にも下った。真冬より三月頃の方が温度の上下が烈しいに違いない。しかし室堂は去年の正月とは比較にならぬほど暖かだった。これは積雪量と室堂の埋り方によるものだろう。
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槍から双六岳および笠ヶ岳往復

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昭和七年二月十日 晴 六・〇〇槍肩 一一・〇〇樅沢岳 〇・〇〇双六岳 一・〇〇樅沢岳 六・〇〇抜戸岳 八・〇〇笠ヶ岳−九・〇〇−一〇・〇〇笠ヶ岳−抜戸岳間のコル 二月十一日 曇−雪 〇・〇〇−一・〇〇抜戸岳北側のコル零下二〇度 三・三〇−四・〇〇二五八八・四メートル峯の南のコル零下一〇度 七・〇〇樅沢岳 二・二〇槍肩
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 槍肩の西斜面は風がよく当るので、快晴の日でもあまり温度は昇らないらしく、雪は単に風成板状になっているだけで、東斜面のように凍ってはいなかった。今冬は冬と思われないほどよいお天気がつづいたので、日当りのよい斜面の雪はたいてい氷になっていた。おかげで槍の穂先の登攀は愉快だった。しかし正月頃に登った人のカット・ステップの跡が残っているのには少々|興《きょう》をそがれた。西鎌尾根には別に悪場と思われるようなところはなかったが、でこぼこが多く、尾根もあまり広くはないから、スキーを履いて歩くのは相当に困難だろうと思った。前|樅沢岳《もみさわだけ》という山は、横を巻く夏道が出ていたので帰りに通ってみたが、巻かずに尾根通り乗越した方がずっと安全だと思った。樅沢岳の頂上で荷物を置いて双六岳へ往復したが、帰りの樅沢岳への登りは案外時間を食った。やはりここは夏のように横を巻いて、笠ヶ岳へつづく尾根へ出た方がよいだろう。双六の小屋は、今年は雪の少ないためか、あるいは風の吹き廻しによるものか、遠目ながら大部分露出して見えた。しかも近年相当に修繕を加えたらしく、新しい木の色がしていた。この附近はすばらしい斜面が多く、眺望も実によいところだから、スキーをしながら二、三日くらい遊んでみたいと思った。樅沢岳をくだってから抜戸岳《ぬけどだけ》へ取付くまでは、尾根が殊に広く、雪も思ったほどかたくないのでスキーを使えば面白そうである。途中二五八八・四メートル峰の南のコルから左俣谷へはすばらしい斜面がつづいていた。抜戸岳へ取付く雪の壁はちょっと凄く見えたが、かかってみれば案外簡単であった。そこは夏道のついているカール状の谷で、両側には岩の尾根が走っている。抜戸岳には左俣側へ向って、のぞくこともできないほど大きな雪庇がつづいている。しかし反対側の打込谷に向った斜面はゆるく、雪もかたいので案外楽であった。抜戸岳から笠ヶ岳までの尾根は平凡で、雪庇もあまり出ていなかった。この日は笠ヶ岳の小屋へ泊る予定だったので、四年前の夏の記憶をたどってあちこち探してみたが、どうもわからない。雪に埋れていたのかもしれないが、別石の囲いのしてある小屋跡らしいものもあったから、その後こわれてなくなったのだろうときめてしまった。笠ヶ岳の頂上には大きなケルンが三つほどあった。その一つの中に名前を書いた紙を記念に挾んでおいた。だいぶ引返して抜戸岳とのコルでコッヘルを使用して夕食をした。缶詰の牛肉と甘納豆で、殊に甘納豆はうまかった。そこからちょっと歩いたところでひょっと懐中電灯を取落したら、見る見る打込谷の方へ転び出して、大変な勢いで飛んで行ってしまった。やっと止ったことは止ったが、随分下の方なので、一時は捨てて行こうと思った。しかし真暗ではとても歩けないので、思い返して谷底の光をたよりに下って行った。幸い岩場もなく、斜面もあまり急ではなかったからよかったが、雪が柔くなってからもなおだいぶ転んでいて登りには相当時間を食った。抜戸岳を越して、例のカール状の谷を下りきってから、コッヘルを使ってレモン・ティをこしらえながらしばらく休んだ。そのとき懐中電灯が急にぱっと消えてしまった。電球の線が切れたようなので、新しいのと換えてみたがそれでもつ
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