押し出す雪崩は主に、下の方は南側の岩壁のある谷から、上の方では正面の岩壁からである。後者のものはほぼ谷全体にひろがるので油断がならぬと思う。大体冬期は降雪と降雨の日をさければめったにやられることはないと思うが、なるだけこの谷では北側の尾根に沿った方がよい。この谷の下の方は、北側に溝が一本通っているが、両側の尾根までは随分広く、すばらしい谷だ。僕は上部正面の岩壁の下で北側の尾根へ取付いたが、そのとき登った谷等はステム・ボーゲンに理想的なところだった。この尾根は岳樺の疎林でとても気持のいいものだった。二千二、三百メートルのところをスキー・デポとした。そこから本尾根までは、岩場はなし雪もやわらかく平凡な尾根伝いだった。本尾根の取付きにも問題になるような雪庇はなかった。冷ノ池《つべたいけ》附近には相当大きな雪庇が東側へ出ていたが、三月頃ほどのこともなさそうだし、つらくてもタンネの中を行けば心配はない。ここから鹿島槍の頂上までは長いことは長いが、風が強いだけで悪場はなし雪もかたく楽だった。頂上には東京商大の人々が立てた岳樺の小枝があって、それに一行の名前を書き入れた中山彦一様の名刺がバットの空箱に入れて挟んであった。僕は無断で失礼だと思ったが、ちょっと嬉しかったので名前をそれに小さく書かせてもらった。そんなわけで濃霧で何も見えなかったが、頂上には立ったに違いないと思っている。帰りは下りなので他の尾根等へ迷い込むようなことはないかと心配したが、迷い込めそうなところはなかった。冷ノ池あたりへ引返したときはもう暗かったので西俣へ下る例の尾根もよくわからず、少々迷った。スキー・デポから北俣と西俣の出合まで八〇〇メートルの下りは、谷全体がとてもすばらしい粉雪で、暗くなかったらいくら僕でも三十分とはかからなかっただろう。また一ノ沢あたりもなかなかいいところだった。
鹿島村では狩野久太郎様のところへ泊った。とても親切な家だったし、山小屋と違うので二十時間の登行もこたえなかった。それはすぐ後の二月十三日に寝具さえない畠山の小屋から針ノ木岳と蓮華岳に往復したんだし、二月十五日には上等の山小屋だったが、猿倉から白馬岳へ登って神城《かみしろ》駅まで歩けたくらいなんだから。天候は一番悪いときだったが、まず二日に一日は山に登れると思った。しかし完全に晴れた日は、僕のいた二月八日から二月十五日までのあいだに十二日の一日だけであった。狩野様は鹿島岳の奥が晴れると快晴になると言ったし、大町あたりの笛や鐘の音が聞えると天候は崩れるとも言った。鹿島岳へ入った凄い連中の話を聞いただけでも来た甲斐があった。
劒岳
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昭和六年二月二十七日 快晴 室堂午前七・〇〇 雷鳥沢八・〇〇 別山乗越一〇・〇〇 長次郎谷の下一〇・四〇 長次郎谷の上午後三・二〇 劒岳四・二七零下十三度 長次郎谷の上五・〇〇 長次郎谷の下六・一〇 別山乗越九・二〇 雷鳥沢一〇・〇〇 室堂一二・二〇
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室堂から雷鳥沢までは去年と同様、室堂の東側を下って谷伝いに行った。雷鳥沢は右側の尾根を登ったが、途中までうまく谷へ入らぬと雪のかたいところがあって困る。別山乗越の小屋はすばらしそうだが、芦峅の人夫を連れないと入れぬらしい。劒沢は傾斜はゆるし、雪はよし、スキーの下手な僕にも愉快に滑れた。三田平《みただいら》にはまた小さい小屋が建ててある。その東側にちょっと離れて六字塚が雪に半分ほど埋れていた。それが去年の正月大変お世話になった方々のものだと思うと、何かしら胸に迫って、身体が引き締ってきた。しかもその辺にはまるで雪崩の跡もなくほんとに不思議でならなかった。長次郎谷は雪崩でだいぶ荒されているが、傾斜はスキーに理想的で、谷も思ったより広い。しかしこの谷は日当りがよいので快晴の日は油断がならぬ。この日は午前中に小さいのが数カ所、主に八峰側から出ていた。しかも雪が随分重く不愉快だった。長次郎のコルには雪庇はなかったが風のために少し雪の窪みができていた。コルから上はちょっとのあいだなかなか急な斜面だった。それでも雪がやわらかだったからピッケルの必要はなかった。劒岳の頂上には例の如く朽木の柱が立っていたが、二尺ほどしか出ていなかった。僕は手帳の紙に消炭で名前を書いてそれにはさんでおいた。長次郎谷の下りはクラストの雪で面白くなかった。それなのに劒沢は相変らず粉雪状態だった。思うに風当りのよい谷は一日くらいの快晴ではまだ大丈夫らしい。劒沢の登りは長かった。長次郎谷の下までくらいコッヘルを持ってきておけばよかったろうと思った。別山乗越まではスキーで登ったが、一歩雷鳥沢へ入ると風で雪がとてもかたくなっていてアイゼンなしでは歩けなかった。また下の方は一日の快晴で雪がばりばりのク
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