っていようものなら仕事などまるで手につかないことがある。
 夜行列車が木曾福島のあたりを通るころには、山へ入って行く興奮からよく目が覚める。そして天候を気にしながらいつも窓外をすかして見るのであった。こうした何年かの経験によって木曽福島附近が晴れておれば翌日は晴天で、曇っていれば曇り、雪が降っておれば雪であることを知った。これによって見ると天候の変化が殆んどすべて南の方からやってくるのだと想像される。
 冬期常念山脈の主峰に登るには、常念一ノ沢より他に適当なコースは見つからない。鳥川橋を渡って二町ほど北へ進み、そこを左へ折れてまた西へ西へと離山の横を登って行くと鳥川橋から一時間あまりで大助小屋という一軒屋の前庭に出てくる。この道は最近改修されて大変よい道になっている。大助小屋には春から秋にかけては番人がいるようだが、冬には誰もいない。旧道はこの谷を渡ってちょっとした峠を越し崩れたところを高廻りしたが、今はその下を巻いて立派な道ができた上、崩れたところには大きな橋が架っている。なおもこの道を巻いて行くと、方向がぐっと北向きになり、冷沢《つべたざわ》という浅川山の西側から南へ落ちている。谷へ出合う。この冷沢の落口附近には一ノ瀬、二ノ瀬という、旧道中の一名所であった二つの橋がある。今は新道がずっと北側ばかりを巻いていて、橋も見えないほど谷から離れている。道はやがて四尺幅くらいにせばまり、右側からジメジメした沢や、水の流れている小谷等が二つ三つ入ってくる。そして冷沢から約一時間で栃ノ木山神というところに着く。ここからは殆んど真西に向ってブナとか栃とかの大木の中を相変らず左岸に沿うて登って行く。二時間余も登って行くと左岸、対岸に常念沢が落ち込んでくる。一ノ沢右岸は道のついている左岸に比べるとずっと平凡で、殆んど谷らしい谷が見あたらない。だからこの常念沢は誰がみてもはっきりしていて、よい目標となり、谷のどんづまりの近くなったことを知らせてくれる。もうここまでくると雪が一尺余り積っていて歩行が困難になってきた。これから上は谷もだんだん傾斜が出てきて雪崩や水害の危険が多いように思われる。殊に雪崩は随分大きな奴が出るらしく、最近山友達山野三郎君や有名な山案内人中山彦一君等の生命を奪っている。
 常念沢出合から上は左岸より右岸の方が複雑で、谷のどんづまりまでに右岸からは小谷が二本ほど入ってくる。この小谷はどれも常念乗越附近から出ている。本谷のどんづまりと思われるところから上は四つの支谷に分れている。第一回は十月十六日に夏道を、第二回は五月二十七日に谷のどんづまりから一番右の大きな谷を登って横通岳頂上附近へ、第三回は三月三十一日に常念沢出合を過ぎてから入ってくる二番目の谷を、第四回はこの十一月三十日で同じく最初に入ってくる谷を登ったがともに乗越附近へ出た。以上四回とも霧の深い日であったため、地形図の間違っていることだけを知ったのみで正確な谷の位置をつきとめていない。あるいは第三回目に登った谷が常念乗越沢であるかも知れない。しかしこの谷も第四回目に登った谷もともに大変幅が狭く、かつ急傾斜なのでスキーを履いて登るのは非常に困難である。殊に冬期にあっては、降雪中は雪はやわらかいが雪崩の危険があり、その他の場合は表面がウインド・クラストに変化した板状雪になっているので、ワカンで登るより仕方がない。こんどの状態は後者で、ワカンを履いてなお腰近くまでもぐった。それで最初荷物を置いたまま、から身で道をつけ、のちスキーと荷物は二回に分けて運ばねばならず、大変苦しい登りであった。この谷を登ると岳樺《だけかんば》のまばらに生えた広い尾根に出ることができた。ここまでくると雪が降り出して吹雪模様になってきたので、毛皮を着込んだり、コッヘルで甘納豆をたいてカロリーをとったりして戦の準備をした。しかしこの尾根は風がよく当るので雪が締っていてアイゼンで楽に登れた。それを登り切ると常念乗越で雪庇等もなく風のために雪も殆んど吹き飛ばされたガラガラ道が常念の小屋までつづいている。小屋は常念岳に面した方の戸が完全に出ていて難なく入れた。雪の多い三月ごろなら一ノ俣に面した西側の窓から入る方が楽であるとのことだ。小屋はなかなか立派で特別室等雪の入っていないところが多く、寝具の設備もある。
 翌日は霧が深い上、非常に強い風が吹きまくっていてとてもスキーをかついでは歩かれないので、まず常念へ、から身で登る。常念は雪が殆んど吹き飛ばされてガラガラで夏と同様の時間で登れる。前常念とのジャンクションから頂上までは本沢へ向って相当大きな雪庇がつづいていた。当にしていた真正面の槍・穂高の勇姿には接することができなかった。小屋へ帰った頃には天候がだいぶ良くなり、青空が見え出したので、槍へ行こうか、上高地へ
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