下ろうかといろいろ迷った。しかし相変らず風が強いのと、休暇も僅かなので大天井岳に登って引返すことにきめ小屋を出発する。常念乗越から横通岳へはしばらくのあいだタンネの林で雪が軟く、ぼこぼこ落ち込むので大変歩きにくい。それに大きな雪庇が一ノ沢に向ってできているので、尾根の端を歩くのは危険である。こんな雪の少ない十二月の初めでさえ雪庇ができているのだから冬期は随分大きくなるであろう。また横通岳の東斜面(一ノ沢上部、昭和三年五月登って見た)は頂上近くなると随分急傾斜であり、降雪中はたいてい西風のため風陰になるから絶好の雪崩発生地であろう。横通から大天井までは広い尾根で危険なところはないが、まだ初冬であるせいか、ところどころ雪が破れて偃松の中へ落込むところがあった。東天井の中山へつづく西尾根には小さい雪庇が南向へつづいていた。二ノ俣の避難小屋は雪が一ぱいつまっていて冬期使用にはたえられないようだ。大天井の頂上からは雲の海になった高瀬の谷をへだてて五郎岳や黒岳、鷲羽等が銀色に光って見えるし、槍から穂高にかけての尾根筋は真冬と変らないほどの真白さで登高欲をそそられる。喜作新道はうねうねしているし、西岳と東鎌とのあいだの鞍部附近は夏でも良くないところだから、縦走するとしたら相当時間がかかるであろう。燕岳への尾根は全く広々としていて頂上までならすぐ行ってこられそうに見えるがなんら興味が起らない。すぐ常念の小屋へ引返し荷物をまとめて再び一ノ沢へ下る。乗越から少し下ると霧が深く雪がちらちら降っているほどで、方角もわからないままいい加減に下って行ったが、やはり登ってきた谷と同じような谷へ入った。谷の雪は相変らず軟くよくもぐるが、下る方は案外楽で登りとは比較にならなかった。で、この谷は常念山脈からの降路としては最良のものに違いないと思った。この晩冷沢の炭焼小屋に厄介になった。小屋主は越中小川温泉山崎村羽入からきている長津という人であった。
冬山の第一の危険は雪崩であるが、初冬の雪崩は殆んど一次(新雪)のもので、真冬や春のようにどか雪の降ることが少ない。また二次―高次(旧雪)の雪崩は春のように恐ろしく気温が高くなったり、大雨が降る等ということもないから、あまり心配はない。天候は春より変りやすいが、ウェーブが小さく大荒れがないので山へ登れない日は殆んどない。気温はこの山行で十一月三十日夜常念の小屋で零度(降雪中)翌十二月一日大天井岳頂上で零下五度(晴、強風)であった。また初冬の岩場は凍ったところが少なく、冬春を通じて一番安全である。初冬の山行の困難は積雪の状態が真冬と同様に軟く、スキーなしには殆んど登れないことである。すなわち春山のようにクラストを利用したり、雪崩の後を伝ったりして歩いて登ることができない。だから藪の多い山や、谷が細く傾斜の急な山へ登ったり、谷から山へ、山から谷へと横断して行くのは困難であろう。
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冬山単独行
薬師岳、烏帽子岳の小屋まで
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昭和五年十二月三十日 小雪 猪谷午前九・三〇 大多和村午後二・五〇零下一度 積雪量一尺くらい
十二月三十一日 晴後快晴 大多和村午前八・三〇零下三度 大多和峠午後〇・〇〇零下四度積雪量三尺くらい 有峰三・〇〇 真川峠八・三〇 真川奥の小屋一〇・〇〇零下一四度積雪量四尺くらい
昭和六年一月一日 曇 真川奥の小屋午前八・三〇零下八度 太郎平午後一・二〇零下六度 上ノ岳の小屋二・三〇零下七度
一月二日 風雪 滞在 午前八・〇〇零下二度 午後〇・〇〇零下五度 四・〇〇零下六度
一月三日 霧後快晴 午前八・〇〇零下一一度 上ノ岳の小屋一一・三〇 薬師沢乗越午後〇・三〇 薬師岳二・五〇零下一三度 薬師沢乗越三・五〇 上ノ岳の小屋五・二〇零下一〇度
一月四日 曇 上ノ岳の小屋午前八・〇〇 黒部五郎岳午後〇・一〇零下八度 黒部五郎の小屋二・〇〇 三俣蓮華岳四・五〇 三俣蓮華の小屋五・三〇零下三度
一月五日 雪 滞在 午前八・〇〇零下二度 午後四・〇〇零下一度
一月六日 雪 三俣蓮華の小屋午前七・〇〇 鷲羽岳九・〇〇零下七度 黒岳午後〇・三〇 野口五郎岳六・三〇 避難地七・〇〇―九・〇〇 三ツ岳午前〇・〇〇 烏帽子の小屋二・〇〇
一月七日 快晴 二〇メートル以下霧 烏帽子の小屋午前一一・〇〇 濁の東信電力社宅午後一一・〇〇
積雪量一尺くらい
一月八日 小雪 電力社宅午前一〇・〇〇 葛ノ湯午後〇・〇〇 大町駅二・三〇
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猪谷から大多和までは両側の山から大きい雪崩の出るところだと思っていたが、雪の少ないためかまだ雪崩の跡はなかった。大多和村では吉田長右衛門様のところで泊めてもらった。村から十町ほど行ったところに崩
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