出発した。そのうち霧が晴れて月が出たので、すばらしい冬の夜の山を味うことができた。風は相変らず強く、立止っていることが多かった。皮の手袋がぬれたので、毛メリヤスの手袋にかえたが、終始指の感覚がなくなるので弱った。やはり風の強いときは、皮の物でないと駄目だ。三ッ岳の三角標石も完全に露出していた。頂上からちょっと行くと左の尾根へ雪庇がつづいているので、それを伝って降った。その尾根は下の方で本尾根と一緒になっているように見えたが、下ってみると大きな谷になっていた。それでも烏帽子の小屋はもうすぐだと思って、元気で引返した。一番さがったところでスキーをはく。樅の林を右に見て、ちょっとしたところを越すとすぐ向うに、烏帽子の小屋が大きく月に照らされていた。小屋は意外にも、風のため土台まで露出していた。窓を開けて中へ入る。小屋の中にも雪は殆んどなかった。蒲団は三俣蓮華の小屋と同様、棒にかけてある。この小屋は風の強いときは寒いに違いないが、寝具があるので大したことはないと思った。
 七日はすばらしい快晴で、少々暑かった。小屋の附近はスキーに最もよいところだった。ブナ立尾根も上の方は素敵だった。尾根がやせてから輪カンジキにした。一カ月ほども烏帽子にいたという猟師が一、二日前に下ったので、輪の跡が残っていたが、新雪と風ではっきりしない。猟師が右の方の谷へ下って、また引返しているのだが、冬期はその谷を下るのかと思って、悪いところを下り随分時間を浪費した。初めはいちいち引返したが、そのうち元気もなくなり、迷ったまま夏道より南の尾根を下って行った。そのうち尾根よりも夏道とのあいだの谷がよさそうなのでそれへ入った。この谷は一月五日の雨に、両側から物凄く雪崩が出て、氷のようになっていたので、輪カンジキでは辷り落ちたりした。アイゼンではまた、六日の新雪があって、ひどく潜るところがあった。この谷は悪場はなかったが、凄い雪崩道である。幸いこの日は風もなく、二〇〇〇メートル以下は霧だったので、雪崩は出なかった。だいぶ下ってから、滝があったので、また右の尾根へ取付いたが、藪が多く楽ではなかった。それに下の川の音を滝だと思って右へ右へと巻いたが、いくら巻いても音がするので、思い切って、尾根のように広い谷があったので、それを降りて行ったら難なく濁《にごり》の川原へ出ることができた。冬期でも、烏帽子へは夏道を上下するとのことだ。川原にはまた、猟師の歩いた跡があって、すぐ濁の小屋へ着くことができた。濁の小屋には莚が三枚と畳があるだけで、寝るには寒いので、対岸にある、東信電力の金原氏のところに行って泊めてもらう。非常に親切な方だった。電気炬燵、電気風呂が殊に嬉しかった。
 八日は、雪がちらちら降っていた。高瀬の谷は物凄い雪崩が出るだろうと思って心配したが、問題になるような物は出ていなかった。しかも人が始終通るので、歩いた方が早かった。大多和の古田氏のところで、大阪の人が昭和五年の正月に芦峅の案内を連れて信州へ越したと聞いた。そのときの山の状態はどんなだったろう。それを今でも知りたいと思っている。また昭和五年の暮に東京の学生が一人で烏帽子へ往復したという。その努力には驚いた。ブナ立尾根の登りはひどいに違いない。
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初冬の常念山脈

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十一月三十日(昭和五年)晴後雪 六・三五柏矢町 七・四〇―八・〇〇鳥川橋傍茶店朝食 九・二〇大助小屋 一〇・一〇冷沢炭焼小屋 三・〇〇常念乗越沢出合 七・〇〇常念の小屋
十二月一日 晴、強風 八・〇〇常念の小屋 九・〇〇常念頂上 九・三〇―一〇・四〇常念の小屋 一一・四〇横通岳 一・四〇大天井岳 三・四〇―四・〇〇常念の小屋 五・三〇常念乗越沢出合 九・三〇冷沢炭焼小屋 
十二月二日 晴 八・三〇冷沢炭焼小屋 一一・三〇豊科
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 日本アルプスといわれる山々には九月の終りにもなると、ときおりは雪がやってくる。しかしまだそれほど寒くないので、その後にくるであろう晴れた日に大部分は哀れにもはかなく消えてしまう。だが十月の半ばにもなって、日本アルプスの谷という谷が緋の衣に包まれると、山の頂きもまた日に日に白さを増してくる。そして十一月には木枯らしが吹き、一荒れごとに淋しい落葉の音もまれに、梢《こずえ》越しにははや雪が見え出してくるし、安曇野《あずみの》の村々には冬篭りの用意ができ、どの家にも暖い炬燵が仕切られてくる。ちょうどそのころ六甲山からも遥か彼方に黒々とした山波を越して真白い「氷ノ山」を見出すことができ、山友達からは今シーズン最初の一滑りを白馬や立山からもたらしてくる。もうこうなると山男の心は日本アルプスのどこかの谷か、山へと飛んでしまって、休暇でも残
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