エーホーと声をかけてみましたが、返事はありませんのでまた一人引返しました。立山の連峰がアーベント・グリューエンに燃えて素敵でした。小屋に帰ってみると、あの人等は熱心に劔登行について相談しておられました。僕が囲炉裏の側でいつものフライ饅頭を食っていると、福松君がそんな物ばかり食っているとからだに悪いからと言って、熱い御飯とお汁を入れてくれるのでした。その夜はすばらしくたくさんの星がキラキラ瞬いていました。福松君がこんなに星が明滅するのはよくないと言っていた通り、次の日は午後からひどく荒れました。
二日の朝は快晴だったので、あの人等は朝早くから起きて準備されました。僕が毛布を罐に入れ、荷物をまとめているとき、あの人等は出発し、田部氏は後頼むよと言って行かれました。僕はそれからすぐ支度ができたので、小屋の中を見廻ってこれでよいと思ってから皆の後を追いました。追いついたとき田部氏が僕に、君はどこへ行くんですかと尋ねられたのです。それで、僕はいけなかったなと思って何と挨拶しようかとちょっとだまっていると、福松君が、室堂に行くんでしょうと答えてくれました。追分小屋の附近から僕が先頭になってラッセルし、福松君の言うように夏道に沿って進むうち、姥石のところで窪田氏がこっちがいいと言って自分で先頭になられました。天狗平から雪はクラストになっていました。鏡石のところでちょっと休んで少し進んでから、あの人等は地獄谷を通って劔沢の小屋に行かれるので別れました。このときの何だか物足りない淋しさ、にぎやかだったこの数日間、それはこのときの淋しさを一層深め、いつもなら後を振り返りエーホーと声を送ってそれをまぎらすものを。
室堂の側に荷物を置いて、一ノ越に登りました。雪をまじえた強い風が吹いていてアイゼンを履くのに弱りました。尾根も風が強く、這うようにしてやっと頂上に登りました。薄い霧がかかっていて遠くの山は見えません。雄山神社の写真を二枚写してすぐ下りました。室堂のいつも開いている北窓の下は風のため土台まで出ていて、この窓からはちょっと入れませんでした。それで南側の浄土山に面した窓から入りました。この窓はトタンで打ちつけ、その上に筵がかけてありましたので、それを巻いて入ったのです。これはいけないことをした、こんなことをしなくとも、もう少し努力すれば北窓から入れるのですのにちよっと吹雪いてきたので早く入ろうと思って、とんだことをしてしまいました。これがため芦峅の案内の人々や、その他多くの人に誤解を受け非難されました。お詫びしなければなりません。
三日の朝は霧が掛っていましたが、非常に明るいのでどうやら良くなりそうだと思って劔沢に向いました。室堂から東へ辷って谷に下り、それに沿って行きました。雪が少ないためかところどころ水の流れが見えます。霧はすぐ晴れて快晴になりました。雷鳥沢の南側の尾根を登りましたが、意外に高いところまで粉雪が積っていました。乗越は強い風が吹いて、西の方は弥陀ヶ原までよく晴れていますが、黒部谷は雲が一杯詰っていて、鹿島や五竜が真白い頭をちょっと出しているだけです。また早月にも雲があってときどき劔をかすめています。劔沢の雪はクラストでした。ちょっと下って劔沢の小屋を見出したときはほんとに嬉しかった。小屋の中に入ってみると、あの人等はストーブを囲んで愉快そうに話をされていました。僕がちょっと挨拶すると、昨日君が一ノ越を登っているのを見てみんな心配したぜ、あんなにお天気が悪かったんだからねと言われました。僕が、今日みんなで劔にお登りになったらどうでしょうと言うと、今日は風が強いから駄目だと言われました。それで僕は、今晩ここへとめて下さいませんかと言ったんです。ほんとにずうずうしい考え方ですが、みんなに連れられて劔に登りたいと思っていたのです。そのとき窪田氏が、とめたいけれどももしお天気が悪くなって一人で帰れなくなるといけないから今日帰った方がいいと思うと言われました。それで僕は今度はすみませんが貴下のパーティに入れて下さいませんかと言ったんです。そしたら窪田氏が、君は一人だからパーティと言うことがわからぬでしょうが、パーティのなかに知らない人が一人でもいることは不愉快なんです。また昨年の乗鞍の遭難についても、知らない人々でパーティを作ったためだという非難もあるから、お気の毒だけれどこんどはお断りすると言われました。そしてもしこの小屋に泊りたいと思われるなら案内者を連れてきたまえ。案内者を連れぬ人はだいたい小屋は使えないのです。案内者を傭うお金がおしいなら山に登らないがいいでしょうと言われました。福松君も児島氏の組になってきなさいと言います。僕はもうこの小屋に泊ることはあきらめたので、兵治君に、今日だったら劔に登れますよ、お天気は大丈夫だし、
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