が君は先に帰ってくれませんかと言われました。そのとき僕は考えた。今きたところ、あの急斜面、しかも右手温泉側はドカッと落ちているあそこがどうしてスキーの下手な僕に安心して下れようと。今ではあんなところはスキーを脱いで下ればよかろうと思っていますが、あのとき僕はハアと答えたもののあの人等の下られる松尾峠の北斜面を横目にみながら後戻りする力はありませんでした。そこで理由を話して一緒に写真に入るのが困るんだったら僕は写真に写らないようにズッと後から行きますと言えばよかったんだが、それだのに僕にそのただ一言いうだけのほんのちょっとの勇気がどうしても出ないのです。それがいつでもなんです。ほんとに自分でも情なくなるのです。しかしここで彷徨しているのは一層いけないと思って反対の西の方へ尾根を歩いて行ったのです。田部氏がそこらを歩き廻って足跡をつけてはいけないと言われるのを後の方へ聞きながら辷ってしまいました。そのときは別に悪いことをしたとは思いませんでした。あの人等は北斜面を辷られのだし、僕は温泉に下る急な広い尾根になっている真白い斜面を左下に見ながら真西に辷ったのですから。それでかなりあの人等が気を悪くされたことは、思わずにはいられません。今なら冬の立山が何だと思っていますが、あの頃にはほんとに心細くて、経験の深いあの人等についていないと危険だとさえ思い、できるだけあの人等の気を悪くすまいと思っていましたから決して反抗的にしたのではなかったので、自ら慰めてはいますが――。帰りは追分附近から雪が降り出し、皆で登ってきたシュプールをただ一人漕いで弘法に帰りました。小屋の内に入って福松君と二言三言話しているうち、威勢よく声を上げて笑いながら帰ってこられました。そして君のスキーはまるで辷らなかったじゃないかと言う窪田氏の声と、よし覚えておれ急斜面に行ったらうんといじめてやるからと言う田部氏の大きな声等聞えました。それから小屋の中は急ににぎやかになりました。明日は元旦だが、もしお天気がよくなったら登って行かねばならず、ゆっくりお正月気分を味うことができぬと思われたのか、この夜持ってきた餅を炊いてお正月のように賑かな夕食をされました。それで兵治君が僕にも餅を分けてくれました。そして言うには初め自分はこういう者ですから、なにとぞよろしく御願いしますと言って挨拶すればよかったんですよ、まるで知らない人にだまってついてこられると誰だってちょっと不愉快になるのですよ――と親切に言ってくれました。それで僕は初めて自分の不注意に気がつき、名刺を持っていなかったので手帳の紙にR・C・C加藤文太郎と書いてどうかよろしくと言って渡したのです。そのとき窪田氏が「うん」という風にうなずかれたと思います。その夜は福松君が板倉氏の話をしてくれました。それから福松君は昨年三月弘法の下で僕が会ったパーティのなかにおったそうで、あれから後のことや、劒の悪場には自分等がある夏、太い針金を取付けておいたとか、こんどは兵治君が案内するので、それで行けなかったら自分も頑張ってみる等と話しました。
 昭和五年の元旦は霧と雪とで明けました。いつになったら登って行けるのやら。兵治君は無理をすると危険ですぞとよく言ったし、我々案内ですら霧に巻かれると方角がわからず、この小屋の附近で露営したことさえあるんですとも言った。僕が例の斜面の西向の緩い方を辷っていると、土屋、松平、窪田三氏と兵治君がやってきて急な北向きの斜面を辷っておられました。霧が薄くなったとき、代り代りにシネかなんかで他の人等が一緒に辷って下りてくるのを撮影されていました。スキーはどなたも上手でした。土屋氏が松平氏に何々温泉のときよりうんとうまくなったねと言われるのや、東京に帰ったらこれを映写するとき、コンパをやろうじゃないか等の会話が聞えました。それからその谷を北へ渡り尾根に登ってそれを伝い少し東へ行ったところで急に兵治君がやーあそこに兎が寝ているぞと言って小さい谷の中腹を指さしました。見ると、一本の木の根元に雪孔があってそこに兎がいたのです。そこで兵治君が辷って追いかけながら杖を投げたが、当らず、向いの尾根に逃げてしまいました。それを土屋氏が撮影され谷を弘法の方へ渡って、小屋の北側の急斜面で、またみんな熱心にスキーの練習をされました。午後になって霧が晴れ、快晴になったので写真機をとりに小屋に帰ると福松君がこんなときにたくさん写しておきなさい、なにしろ冬の立山だから悪くなったらいつ晴れるか知れないし、いい記念になるんだからと言いました。それで田部氏も土屋氏も大きなカメラを持って出かけられました。僕は水野氏から、同志社の児島氏が正月劔に登られると聞いていたので、今日あたりこられるかも知れぬと思って、桑谷の上まで行ってみました。そして何度か
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