でいる。白馬の頂きに立ったとき、初めての夏山入りの思い出(蓮華温泉からこの頂きに立ったとき、こんなすばらしい山が日本にもあるのかと驚き、劔を見て槍だと思った頃のこと)が浮んでくる。頸城《くびき》の山もなかなか素敵だ。スキーはなくても下りは早い。スキーを置いたところから少し下ると猿倉の小屋が見つかった。神戸徒歩会の人がトリコニーの鋲靴を履いた案内を連れている。案内に白馬の頂きで黒姫山がわからなかったと言ったら、そんなことはない大雪渓の辺からズッと見えると行った。これではトリコニーが泣きはしないだろうか。そして湯を一杯貰うのさえ礼を言ったが、翌日白馬館で薪代を取られた。
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四月二十九日 晴 猿倉八・〇〇 小日向頂上九・四〇 猿倉一〇・一〇―一一・〇〇 四谷一・三〇
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天気がいいのでスキーを履いて小日向山に登ってみた。白馬連峰を見るのにいいところだ。帰りは雪が溶けて水分が多く、スキーがあまり辷らぬので嬉しかった。辷ると転ぶからだ。徒歩会の人は二日ともノビニズムを研究していた。帰りに徒歩会の人と附合いをしたら、自動車が二十分遅れて電車に間に合わず、松本で十二時まで待たされた。僕はパートナーとしては恵まれないようだ。
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一月の思い出
――劔沢のこと
一月のことを思い出すのは僕には耐えられぬほど苦しい。だがそれをどうしても話してしまわなければ、僕は何だか大きな負債を担《にな》っているような気がしてなりません。偶然同じ小屋に臥し、同じ路を歩いた六人の Party と一人の Stranger とのあいだに醸成された感情、そんな些細な、つまらないことをと言ってしまえばそれまでですが、少なくともあのときの僕の不注意と親しみの少ない行動とを思い出すと、その貧しい記憶の残り火を過去の灰の中からかき立ててここに記すことは、僕としての義務であり、またそう努力することが、今はない六人に対する心ばかりの弔意であるとも思われるのです。
ちょうど去年の暮の三十日の朝、雪の立山に魅せられた僕は、いつものボロ服姿で千垣に着きました。芦峅の佐伯暉光氏のところに寄ってあの人等が先に登られたと聞き少なからず心強く思ったことです。雪は藤橋でもわずか五寸ほどで、材木坂の大部分はスキーをかつぎ、それからも桑名までは雪が少なくて夏道より他はブッシュでとても歩けず、ブナ坂や刈安峠はスキーを脱いだくらいです。しかしあの人等の走跡があっただけに、迷うこともなく、ラッセルもしないですんだわけですから、どんなに楽だったか知れません。このことについては僕は、前にシュプールをつけてくれた人等に対して感謝の念を持ったのみで、その後ときどきこのような立場にある単独登行者に対して、悪意としか思われないほどの非難を聞きますが、そんなことは全く思いおよびもしませんでした。
小屋に着いたときは四人の人等はみんなストーブのまわりで、スキーや山の話で夢中だったように思います。福松君と兵治君は炊事場の囲炉裏にあたって何かしていました。僕はそこへ行って御馳走になりながら、藤木氏や津田氏の話をしたように思います。夜は僕は囲炉裏の側で兵治君を真ん中にして福松君と三人で一緒に寝たのでした。四人の人等はいつも小屋の中に張ったテントに火鉢を入れて寝られたようです。
三十一日の朝は霧が深く雪もチラチラ降っていました。福松君が目を覚して天気はどうかと聞いたので、大変な霧だと言ったら、それじゃ駄目だ、三月頃なら頑張ってみるが、今頃はこんな日でも鏡石辺から上は必ず強い風が吹いていて危険だ、など話しました。福松君は風邪を引いていて僕が薬を上げたが、いつもより元気が無かったようです。明るくなってから田部氏と福松君の他は一人ずつスキーの練習に出かけました。小屋より二町ほど西で小さい谷に面したところです。土屋氏が一番熱心のようでした。僕は殆んど見ていて一緒に辷ることは稀でした。昼頃から霧が晴れ鏡石辺から見えるようになったので、福松君を残してみんなで板倉氏の霊を弔いに松尾峠へ行くことになりました。それで僕もついて行ったのですが、だまって挨拶もしないでついて行ったのはいけなかったのです。うっかりしておったのですが、変な奴だと思っていられたようです。追分の小屋でちょっと休んで、いつも僕等が温泉の方をのぞくときに行くようなところから右へ急な斜面を登って松尾峠に着きました。終始兵治君がラッセルしてくれました。このとき一度でも僕が代っていたらどんなにあの人等の気持を親しくしていたか知れないと思わずにはいられません。峠の上でちょっと休んでこれから帰ろうというときになって田部氏が僕に、僕等は僕等だけで写真をとりたいから、すまない
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