たが返事がない。近いようでもなかなか離れているのだろう。谷が狭くなって両側の山が大きくなりだしたとき、一陣の西風がサーと吹いてきてタンネの森がジワジワとおののき、山はゴーと凄い音を立て、青空はすでに刷毛で掃いたような雲におおわれて明日の荒天を判然と示してきた。温度も急に下り、僕はなんだか身顫いするような不安に襲われた。だがそれから間もなく夏沢温泉に着くことができてホッとした。この温泉は地図で見ると峰ノ松目の北にあたる岩壁の所から、一、二町下らしい、ここからその岩壁がよく見えるから。温泉は障子のままにしてあるので風通しがいい。しかし森林地帯だからさほど強い風は吹かぬし、明るいので気持がいい。温度が低いので火は焚けなかったが、畳が敷いてあり、蒲団がたくさんあるので寒くはない。水は少し硫黄臭いが小川が前を流れている。積雪量は二尺くらいだ。

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昭和四年一月一日 雪 温泉出発九・〇〇 夏沢峠一一・二〇 温泉帰着一二・三〇
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 昭和四年の元旦は吹雪で明けた。予想はしていたものの山の中の一軒屋にいて雪に降られるのは淋しい。元気を出して夏沢峠まで行ってみる。道はよくわかるし危険と思われるようなところはない。スキーは昨日と同じく五寸くらい沈む、峠の頂きに雪が四尺ほど積っている。随分寒いのですぐ帰って蒲団の中に潜り込む。――今日は元日だ、町の人々は僕の最も好きな餅を腹一パイ食い、いやになるほど正月気分を味っていることだろう。僕もそんな気分が味いたい、故郷にも帰ってみたい、何一つ語らなくとも楽しい気分に浸れる山の先輩と一緒に歩いてもみたい。去年の関の合宿のよかったことだって忘れられない。それだのに、それだのに、なぜ僕は、ただ一人で呼吸が蒲団に凍るような寒さを忍び、凍った蒲鉾ばかりを食って、歌も唱う気がしないほどの淋しい生活を、自ら求めるのだろう。――
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一月二日 曇 温泉出発九・三〇 二五〇〇メートルくらいの地点一一・五〇 温泉帰着一・〇〇
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 今日もやはり天気が悪い。雪はあまり降ってはいないが風がなかなか強い。また峠へ行って硫黄岳の偃松帯まで登る。岳は霧や風と戦いの真最中で凄い音をたてている。一人では登る気にならない。トボトボ温泉へ引返す。近所にスキーを練習するような所はなし、しようがない
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