しかしまた彼は「あれほどひどい苦しみをして山からおりてきたんだもの、どうして汽車に間に合わぬことがあろう、神様だってお助け下さるに違いない」と思ったりした。やがて電車は駅前へ着きました。汽車はたしかに構内にいます。そしてAは電車から飛び降りると一目散に駅へ駈込みました。その刹那、汽車は「ピー」と汽笛一声―動き出したではありませんか。そして一生懸命に改札口へ殺到したAは、機械のごとくつめたい駅員にしっかとさえぎられてしまいました。
そのときの彼の心の中はどんなだったでしょう。――
彼こそ――一人で山登りはしますが――ほんとうは可哀想なほど――気の弱い男だったのです。
[#地から1字上げ](一九二九.一一)
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冬/春/単独行
八ヶ岳
[#ここから18字下げ]
昭和三年十二月三十一日 快晴 茅野六・三〇 上槻ノ木一〇・〇〇 一二・三〇スキーを履く 夏沢温泉四・〇〇
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汽車が塩尻に着いた頃は空がどんより曇っているので心配したが、明るくなるにつれていい天気となり諏訪の高原はとても寒い風が吹いていた。茅野の駅に下りて、まだ夜の明けたのを知らない静かな街道を一人トボトボ歩いていると、初めての冬山入りの淋しさがしみじみ身にしむ。駅から泉野村小屋場まで定期に自動車が通っている。スキーをかついで新田のあたりを登っていると、それらしい自動車が下りてきた。小泉山の下で東の空に判然と浮んだ真白い八ヶ岳の連峰に驚きの目を見張る。この道の最後の村である上槻ノ木で温泉の様子を聞く。今年は経営主が変ったため番人がいないことや、温泉までの道も左へ左へと登って行くことを教えられた。僕は本沢温泉の方は一度歩いたことはあるが、この道は初めてなので心配していた。魔法瓶に湯を入れてもらって出発し、だいぶ奥まで木を引き出す馬の歩いた跡を伝う。左へ左へと登ったため、地図の道と離れて鳴岩川に近い方を歩いた。一四〇〇メートル辺でスキーを履き、一四六七メートルを乗越して地図の道に入った。スキーは五寸くらい沈み睡眠不足がこたえてくる。しかし積雪量が少ないので夏道がよくわかるし、後を振り返るたびに真白い南の駒や仙丈、さては中央の山々、北の御嶽、乗鞍等が次々に現われて慰め励ましてくれる。鳴岩川の対岸に温泉でもできるのか大工のノミの音がこだましてくる。エホーと声をかけてみ
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