は私に向って「君の生命は旦夕にせまっている」というのである。それはどうしてだと聞いてみると、実は去年の今ごろ、今は亡き神戸の三谷氏が友達と二人で君と同じように飄然とここへやってきたが、そのとき三谷氏は現在君のいるところへ全く同じように腰をかけていたし、また同じく神戸の金光氏および有明の案内塚田君もやっぱり同じようにそこへ腰をかけていたのだ。だから君ももう長くはないというのである。さすがに冬期屏風岩を登る人だけあって実にはっきりとものをいうではないか。だがしかしそれほどしっかりした彼氏も単独行を知らないのである。そして彼氏は、俺は友達と二人で屏風岩を登った。ザイルは使わなかったけれど、二人のあいだには心と心の絆がいつも緊張していてなんらの不安もなかったのだ。俺は一人で屏風岩を登ろうとは思わないし、一人で山を歩こうとも思わないといった。彼氏ほどの技倆と熱情を持った山岳家でさえ単独行をしないというではないか。だから危険だとか、危険でないとか、技倆等をもって単独行を云々することはできない。単独行をしたい人こそ単独行をするべきであり、またそういう人こそ単独行をなしうる第一の資格があるのである。
単独行者としても、ときには案内をつれたパーティと一緒に山小屋へ泊ることがある。彼は単独行者である以上初めから案内に好かれるはずがない。それに彼は山男の常として無口で人の機嫌などとることを知らない。ただ彼の臆病な心はひたすら案内人の気にさわることを恐れているのである。かかる場合、ちょっと天候が悪いくらいでも、案内人が今日はとても出かけられませんよといって動かずにおれば、いくら彼が天候に自信をもっていても案内人を裏切って出かけることはできないであろう。かくて二、三日も、一緒に小屋におれば「近江積雪期登山の隆盛となるに従い、なかにはこの時期の登山について経験を有せざるものが山麓の部落あるいは山小屋にいたり、優れたる案内人や好指導者を有する登山隊の足跡を追うて高峻岳に登攀せんとするものがあると伝えられる。もし真なりとせば、かくの如きことは絶対に避けなければならない。危険の責任を他に転嫁するものなりと評されても仕方がない」などといわれるのではなかろうか。また案内をつれないと山小屋に鍵が掛っていて入れない地方があるが、そんな所ではガイドレスはもちろん単独行者などは極度に嫌われているわけだから、も
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