―旭岳―白馬岳等に登った。翌八年一月には御殿場から富士山へ登頂、つづいて黒沢口から御嶽山に登り王滝口へ下る。三月には槍沢を登り槍ヶ岳―南岳―北穂岳―唐沢岳―奥穂岳―前穂岳と縦走して岳川へと下った。つづいて乗鞍に登頂(四月一日には立山から別山まで尾根を歩き、翌日乗鞍の小屋から軍隊劔岳へ登頂した)かくて本年に入ったのだが残念にも一月にはあの大雪にあい、立山中腹ブナの小屋においてテントを置いたまま退去の憂目《うきめ》をみた。(山友達とともに春になった四月の三、四の両日に前穂高の北尾根を登り、奥穂高へ辿る途中において凍傷にかかり、槍ヶ岳方面を抛棄して穂高小屋から下ったのである)。以上冬期でないものおよび単独行でないもの(カッコ内のもの)も列記したが、これによって見ればほぼ容易な山行から漸次困難な山行へ進んでいるといえよう。
我々は何故に山へ登るのか。ただ、好きだから登るのであり、内心の制しきれぬ要求に駆られて登るのであるというだけでよいのであろうか。それなら酒呑みが悪いと知りつつ好きだから、辛抱ができぬからといって酒を呑むのと同じだといわれても仕方があるまい。だから我々は山へ登ることは良いと信じて登らなければならない。山へ登るものが時に山を酒呑みの酒や、喫煙者の煙草にたとえているのには実に片腹痛いのである。もしも登山が自然からいろいろの知識を得て、それによって自然の中から慰安が求めえられるものとするならば、単独行こそ最も多くの知識を得ることができ、最も強い慰安が求めえられるのではなかろうか。何故なら友とともに山を行く時はときおり山をみることを忘れるであろうが、独りで山や谷をさまようときは一木一石にも心を惹かれないものはないのである。もしも登山が自然との闘争であり、自然を征服することであり、それによって自然の中から慰安が求め得られるとするならば、いささかも他人の助力を受けない単独行こそ最も闘争的であり、征服後において最も強い慰安が求めえらるのではなかろうか。ロック・クライマーはただ人が見ているだけで独りで登るときよりはずっと気持が違うというではないか。
去年の三月私は横尾谷にある松高の岩小屋をおとずれたことがある。ちょうどその年の一月屏風岩を登った中村氏らがいて非常に歓待してくれた。そのとき私は入口においてある大きな白樺の木へ腰をおろして焚火にあたっていた。ところが中村氏
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