大あわてにあわてて駅員から駅員と走り廻り、やっとそれが案内所の方へ忘れ物として廻してあることがわかったが、それを受取りに行って汽車に乗込むまでの忙しさといったら一通りや二通りではなかった。
 さて汽車に乗込んでみると相当満員のうえ皆よく寝ている。とても僕にはそれを起す勇気は出ない。僕は闘志を強くするために山へ行くのだと思っていたが、どうしたわけか山へ深入りするほど闘志が弱くなっていくような気がする。人と人との闘いに負けて山へ逃げて行くのが現在の僕なのだろうか。
 静岡のあたりだったか勇敢な人がたった一人できて大声で「満員になりましたから皆起きて下さい」とどなったので寝ていた人は皆驚いて起き上った。そのとき彼の人は悠々と歩いて行って、一番気持のよさそうな席へすわり込み、すぐ居眠りを始め出した。僕は思った――こういう人こそ今の世の中では一番成功するひとなんだ――他人のいうことを気にしていたり、どうしたら他人の邪魔にならないだろうか、こうしていたら他人に心配を掛けずにすむだろう等と小さいことまで考えている者はやがて自滅の運命をたどるであろう。
 三島の附近から夜あけの富士が見え出したので車中はひとしお賑かになった。僕の前にすわっている人が僕にどこへ行くのかと聞くので、富士山へ登る予定だといったら少なからず驚いて、君はどう欲目に見ても、富士山へなど登れそうにないという。もっともだ。この寒い冬の最中に上着も無く、カッター・シャツを着ただけであり、足には地下足袋を履いている僕を見ては誰だってそう思うだろう。それにこの人は汽車へ乗込んできたとき小声で「皆寝ていやがってすわるところもないや」とつぶやきながら立っていたほどだから、恐らく情の強い人なのだろう。僕のことを心から心配しているようだった。こういう人は将来損だと僕は思う。なぜならこの人は情が強いために他人が危地へ陥るのを助けようとして自分の力の全部をなげ出し、やがて自分が危地に落ちて行くに違いない。少なくとも他人の苦しむのを気にしているあいだは、今の世の中ではとても成功はできまい。
 御殿場の駅で見た富士山は僕の頭を圧して被いかぶさるようにつったった実に物凄い雪の壁だった。あの雪の壁が一度にどっと崩れてきたらどうしよう。どこにもかじりつけそうな岩尾根はないではないか。あんな凄い壁をどうして人は登るんだろう。せめて氷でもならアイ
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