ス・ハーケンにものをいわせようが、あのような雪の壁など、どうして僕に登ることができよう。「やめようか」そう思ったけれど、せっかくここまでやってきたんだ。闘わずして退くなどはあまり残念だ。――そうだ。闘ってみよう。――全力をつくして闘った後なら頂上へ登れなくとも思い残すことはない。全力をつくして闘うところに価値があるのであって、頂上へ立つことのできるのはその副産物に過ぎないんだ。
御殿場は太郎坊附近がスキー場になっているので、名古屋鉄道局管内ならスキー割引の切符が発売されているし、乗合自動車が馬返しまで行ってくれる。
太郎坊はスキー客で相当賑かだった。午前九時早めの昼食をして、この日早朝出発した観測所の人々の後を追った。この附近で見た富士山は広々とした真白な斜面がどこまでもつづいていて、御殿場で感じた凄みはなく、平凡な山としか見えない。大急ぎに急いでやっと三合目の附近で皆に追いつき簡単に挨拶をした。そのとき、案内人らしい人が僕に「一人で――案内もつれないとは無謀ではありませんか」という。もっともだ。一年に数十万人も登る富士山にたった一度夏にきただけで、すぐ冬季にこころみるなど無謀に違いない。けれど闘志を強くするためか、あるいは逃避のための山行なら案内がいろうはずがない。そのうえ案内人もろとも遭難する場合を考えると、気の弱い僕にはとてもやとう気がしないんだ。
それから皆と一緒に、宝永山の北側の浅い谷を登って行った。雪は風に少し作用を受けた粉雪で、ラッセルも無く非常に楽だった。皆は五合目の観測所の小屋に泊るので、僕はそこをスキー・デポとしてアイゼンを履き、中食ののち、宝永山の尾根へトラヴァースした。この附近はまだ雪がやわらかくだいぶもぐるところがあった。しかし尾根へ出てからはアイゼンで気持のよい堅雪だった。七合目附近から暗くなりだしので、安全第一と、この尾根を離れて左へちょっと巻き、宝永山の火口の真上の夏道のついている谷へ入った。この谷は風が当らないためか雪が非常にやわらかく、ひどくもぐってとても困った。そのうえ空腹を感じても食事をする余裕が出ないので、あえぎあえぎ登ったため非常に時間がかかった。あまり苦しいので右へ巻いて元の尾根の上へ出た。この尾根は雪が理想的に締っていてとても楽だった。帰りにもこれを下ってみたが、悪場など一カ所もなく平凡な尾根で、夏道の谷へ入らず
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