端書を膝《ひざ》の上に置いて、お光はまたそれにいつまでも見入った。
「全くもうむずかしいんだとしたら……」としばらくしてから口に出して言ったが、妙に目を光らせてあたりを見廻し、膝の上の端書を手早く四つに折って帯の間へ蔵うと、火鉢に凭《もた》れて火をせせり出す。
 長火鉢の猫板《ねこいた》に片肱《かたひじ》突いて、美しい額際《ひたいぎわ》を抑えながら、片手の火箸《ひばし》で炭を突《つ》ッ衝《つ》いたり、灰を平《なら》したりしていたが、やがてその手も動かずなる。目は瞬《しばたた》きもやんだように、ひたと両の瞳を据えたまま、炭火のだんだん灰になるのを見つめているうちに、顔は火鉢の活気に熱《ほて》ってか、ポッと赤味を潮《さ》して涙も乾《かわ》く。
「いよいよむずかしいんだとしたら、私……」とまた同じ言を呟《つぶや》いた。帯の間から前《さき》の端書を取り出して、もう一度読んで見たが、今度は二つに引き裂いて捨てたのである。
「お上さん、三公はどッかへ出ましたか?」と店から声をかけられて、お光は始めて気がつくと、若衆の為さんが用足しから帰ったので、中仕切の千本|格子《ごうし》の間からこちらを覗《のぞ》いている。
「三吉は今二階だが、何か用かね?」
「なに、そんならいいんですが、またどっかへ遊びにでも出たかと思いまして」と中仕切をあけて、
「火種を一つ貰えませんか?」
「火鉢をお貸し」
 為さんは店の真鍮火鉢《しんちゅうひばち》を押し出して、火種を貰うと、手元へ引きつけてまず一服。中仕切の格子戸はあけたまま、さらにお光に談《はな》しかけるのであった。
「お上さん、親方はどんなあんばいですね?」
「どうもね、快《よ》くないんで困ってしまうわ」
「ああどうも長引いちゃ、お上さんもお寂しいでしょう?」
「寂しいって?」お光は合点の行かぬ顔をして、「なぜね?」
「へへへ、でもお寂しそうに見えますもの……」と胡散《うさん》くさい目をしながら、「何は、金之助さんは四五日見えませんね?」
 お光は黙って顔を眺《なが》めた。
「あの人は何でしょう、前から何も親方と知合いというわけじゃないんでしょう?」
「深い知合いというでもないが、小児《こども》の時学校が一緒とかで、顔は前から知ってるんだって」
「そうですか。私《わッし》ゃまたお上さんがお近しいから、そんな縁引きで今度親方のとこへも来なすったんだと思いまして……いえね、金さんの方じゃ知んなさらねえようだが、私ゃ以前あの人の家のじき近所に小僧をしていて、あの人のことはよく知ってますのさ」
「そう、いつごろのこと?」
「そうですね、もう四五年前のことでしょう、お上さんがまだ島田なんぞ結《い》ってなすったころで」
「へえい、じゃ私のこともそのころ知ってて?」
「ええ、お上さんのことはそんなによく知りませんが、でも寄席《よせ》へなぞ金さんと一緒に来てなすって、あれがお光さんという清元の上手な娘《こ》だって、友達から聞いたことはありますんで……金さんも何でしょう、昔馴染《むかしなじ》みてえので、今でもお上さんが他人のようにゃ思えねえんでしょう」とニヤリ歯を見せて笑う。
 お光はサッと顔を赤くしたが、「つまらないことをお言いでないよ! 昔馴染みだとか、他人のように思えないだとか、何か私と厭らしいことでもあったようで、人聞きが悪いじゃないか」
「へへ、誰も人は聞いてやしませんから大丈夫でさ」
「あれ、まだこの人はあんなことを言って! 金さんと私とは、娘の時からの知合いというだけで――それは親同士が近しく暮らしてたものだから、お互いに行ったり来たり、随分一緒にもなって同胞《きょうだい》のようにしてたけど……してたというだけで、ただそれだけのものじゃないか、お前さんもよっぽど廻り気の人だね」
「へへ、そうですかね」と為さんは例のニヤリとして、「私もどうか金さんのような同胞に、一度でいいから扱われて見てえもんですね」
「じゃ、金さんの弟分にでもなるさ」と言い捨てて、お光はつと火鉢を離れて二階へ行こうとすると、この時ちょうど店先へガラガラと俥《くるま》が留った。
 俥を下りたのは六十近くの品のいい媼《ばあ》さんで、車夫に銭を払って店へ入ると、為さんに、「あの、私はお仙のお母《ふくろ》でございますが、こちらのお上さんに少しお目にかかりたくてまいりましたので……」
「まあ阿母《おッか》さん、よくまあ!」とお光は急いで店先へ出迎える。
 媼さんはニコニコしながら、「とうとうお邪魔に出ましたよ。不断は御無沙汰《ごぶさた》ばかりしているくせに、自分の用があると早速こうしてねえ、本当に何という身勝手でしょう」
「まあこちらへお上んなさいよ、そこじゃ御挨拶も出来ませんから」
「ええ、それじゃ御免なさいましよ、御遠慮なしに」とお光の後につい
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