変だぜ、店の方も打遣《うっちゃ》らかしにして、いやにソワソワ出歩いてばかりいるが……」
「なあにね、今日は不漁《しけ》で店が閑《ひま》だから、こんな時でなけりゃゆっくり用足しにも出られないって」
「へ! 何の用足しだか知れたものじゃねえ、こう三公、いいことを手前に訓《おし》えてやらあ、今度お上さんが出かけるだったらな、どうもお楽しみでございますねって、そう言って見や、鼻薬の十銭や二十銭黙ってくれるから」
「おいらはそんなことを言わなくたって、お上さんにゃしょっちゅう小使いを貰《もら》ってらあ」
「ちょ! 芝居気のねえ野郎だな」と独言《ひとりご》ちて、若衆は次の盤台を洗い出す。
しばらくするとまた、「こう三公」
「何だね? 為さん」
「そら、こないだお上さんのとこへ訪ねて来た男があるだろう……」
「為さんはまたお上さんのことばっかり言ってるね」
「ふざけるない! こいつ悪く気を廻しやがって……なあ、こないだ金之助てえ男が訪ねて来たろう」
「うむ、海に棲《す》んでる馬だって、あの大きな牙《きば》を親方のとこへ土産《みやげ》に持って来たあの人だろう」
「あいつさ、あいつはあれ限《ぎ》りもう来ねえのか?」
「来ねえようだよ」
「偽《うそ》つけ! 来ねえことがあるものか」
「じゃ、為さん見たのか?」
「俺は手前、毎日得意廻りに出ていねえんだもの、見やしねえけれど大抵当りはつかあ」
「そうかね」
「そうとも。きっと何だろう、店先へ買物にでも来たような風をして、親方の気のつかねえように、何かボソボソお上さんと内密話《ないしょばなし》をしちゃ、帰って行くんだろう。なあ、どうだ三公、当ったろう?」
小僧は怪訝《けげん》な顔をして、「俺《おいら》はそんなとこを見たことはねえよ。だって、あれからまだ一度も来たのは知らねえもの」
「本当か?」
「ああ、本当に!」
「そんなはずはねえがな」と若衆は小首を傾《かた》げたが、思い出したように盤台をゴシゴシ。
十分ばかりもゴシゴシやったと思うと、またもや、「三公」
「三公三公って一々呼ばなくても、三公はここにいるよ」
「お上さんのとこへ、この節郵便が来やしねえか?」
「郵便はしょっちゅう来るよ」
「なあに、しょっちゅう来るのでなしに、お上さんが親方へ見せずに独りで読むのが?」
「どうだか、俺《おいら》はそんなことは気をつけてねえから……や! お上さん」
「え※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」と若衆も驚いて振り返ると、お上さんのお光はいつの間にか帰って背後《うしろ》に立っている。
「精が出るね」
「へへ、ちっともお帰んなすったのを知らねえで……外はお寒うがしょう?」
「何だね! この暖《あった》かいのに」と蝙蝠傘《こうもりがさ》を畳む。
「え、そりゃお天気ですからね」と為さんこのところ少《すこ》てれの気味。
お光は店を揚《あが》って、脱いだ両刳《りょうぐ》りの駒下駄《こまげた》と傘とを、次の茶の間を通り抜けた縁側の隅《すみ》の下駄箱へ蔵《しま》うと、着ていた秩父銘撰《ちちぶめいせん》の半纏《はんてん》を袖畳みにして、今一間茶の間と並んだ座敷の箪笥《たんす》の上へ置いて、同じ秩父銘撰の着物の半襟のかかったのに、引ッかけに結んだ黒繻子の帯の弛《ゆる》み心地なのを、両手でキュウと緊《し》め直しながら二階へ上って行く。その階子段《はしごだん》の足音のやんだ時、若衆の為さんはベロリと舌を吐いた。
「三公、手前お上さんの帰ったのを知って、黙ってたな?」
「偽《うそ》だよ! 俺はこっちを向いて話してたもんだから、あの時まで知らなかったんだよ」
「俺の喋ってたことを聞いたかしら?」
「聞いたかも知れんよ」
「ちょ! どうなるものか」と言いさまザブリと盤台へ水を打《ぶ》っ注《か》けて、「こう三公、掃除が済んだら手前もここへ来や。早く片づけて、明るいうちに湯へ行くべえ」
後は浪花節《なにわぶし》を呻《うな》る声と、束藁《たわし》のゴシゴシ水のザブザブ。
二階には腎臓病の主《あるじ》が寝ているのである。窓の高い天井の低い割には、かなりに明るい六畳の一間で、申しわけのような床の間もあって、申しわけのような掛け物もかかって、お誂《あつら》えの蝋石《ろうせき》の玉がメリンスの蓐《しとね》に飾られてある。更紗《さらさ》の掻巻《かいまき》を撥《は》ねて、毛布をかけた敷布団の上に胡座《あぐら》を掻いたのは主の新造で、年は三十前後、キリリとした目鼻立ちの、どこかイナセには出来ていても、真青な色をして、少し腫《むく》みのある顔を悲しそうに蹙《しか》めながら、そっと腰の周囲《まわり》をさすっているところは男前も何もない、血気盛りであるだけかえってみじめが深い。
差し向って坐ったお光は、「私の留守に、どこか変りはなかったかね?」
「別に
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