たぶんならなかったであろう。茶の湯に用いられた器具の製造のために、製陶業者のほうではあらん限りの新くふうの知恵を絞ったのであった。遠州の七窯《なながま》は日本の陶器研究者の皆よく知っているところである。わが国の織物の中には、その色彩や意匠を考案した宗匠の名を持っているものが多い。実際、芸術のいかなる方面にも、茶の宗匠がその天才の跡をのこしていないところはない。絵画、漆器に関しては彼らの尽くした莫大《ばくだい》の貢献についていうのはほとんど贅言《ぜいげん》と思われる。絵画の一大派はその源を、茶人であり同時にまた塗師《ぬし》、陶器師として有名な本阿弥光悦《ほんあみこうえつ》に発している。彼の作品に比すれば、その孫の光甫《こうほ》や甥《おい》の子|光琳《こうりん》および乾山《けんざん》の立派な作もほとんど光を失うのである。いわゆる光琳派はすべて、茶道の表現である。この派の描く太い線の中に、自然そのものの生気が存するように思われる。
 茶の宗匠が芸術界に及ぼした影響は偉大なものではあったが、彼らが処世上に及ぼした影響の大なるに比すれば、ほとんど取るに足らないものである。上流社会の慣例におけるのみならず、家庭の些事《さじ》の整理に至るまで、われわれは茶の宗匠の存在を感ずるのである。配膳法《はいぜんほう》はもとより、美味の膳部の多くは彼らの創案したものである。彼らは落ち着いた色の衣服をのみ着用せよと教えた。また生花に接する正しい精神を教えてくれた。彼らは、人間は生来簡素を愛するものであると強調して、人情の美しさを示してくれた。実際、彼らの教えによって茶は国民の生活の中にはいったのである。
 この人生という、愚かな苦労の波の騒がしい海の上の生活を、適当に律してゆく道を知らない人々は、外観は幸福に、安んじているようにと努めながらも、そのかいもなく絶えず悲惨な状態にいる。われわれは心の安定を保とうとしてはよろめき、水平線上に浮かぶ雲にことごとく暴風雨の前兆を見る。しかしながら、永遠に向かって押し寄せる波濤《はとう》のうねりの中に、喜びと美しさが存している。何ゆえにその心をくまないのであるか、また列子のごとく風そのものに御《ぎょ》しないのであるか。
 美を友として世を送った人のみが麗しい往生をすることができる。大宗匠たちの臨終はその生涯《しょうがい》と同様に絶妙都雅なものであった。彼ら
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