一輪の朝顔があった。
こういう例を見ると、「花御供《はなごく》」の意味が充分にわかる。たぶん花も充分にその真の意味を知るであろう。彼らは人間のような卑怯者《ひきょうもの》ではない。花によっては死を誇りとするものもある。たしかに日本の桜花は、風に身を任せて片々と落ちる時これを誇るものであろう。吉野《よしの》や嵐山《あらしやま》のかおる雪崩《なだれ》の前に立ったことのある人は、だれでもきっとそう感じたであろう。宝石をちりばめた雲のごとく飛ぶことしばし、また水晶の流れの上に舞い、落ちては笑う波の上に身を浮かべて流れながら「いざさらば春よ、われらは永遠の旅に行く。」というようである。
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第七章 茶の宗匠
宗教においては未来がわれらの背後にある。芸術においては現在が永遠である。茶の宗匠の考えによれば芸術を真に鑑賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す人々にのみ可能である。ゆえに彼らは茶室において得た風流の高い軌範によって彼らの日常生活を律しようと努めた。すべての場合に心の平静を保たねばならぬ、そして談話は周囲の調和を決して乱さないように行なわなければならぬ。着物の格好や色彩、身体の均衡や歩行の様子などすべてが芸術的人格の表現でなければならぬ。これらの事がらは軽視することのできないものであった。というのは、人はおのれを美しくして始めて美に近づく権利が生まれるのであるから。かようにして宗匠たちはただの芸術家以上のものすなわち芸術そのものとなろうと努めた。それは審美主義の禅であった。われらに認めたい心さえあれば完全は至るところにある。利休は好んで次の古歌を引用した。
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花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや(三六)
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茶の宗匠たちの芸術に対する貢献は実に多方面にわたっていた。彼らは古典的建築および屋内の装飾を全く革新して、前に茶室の章で述べた新しい型を確立した。その影響は十六世紀以後に建てられた宮殿寺院さえも皆これをうけている。多能な小堀遠州《こぼりえんしゅう》は、桂《かつら》の離宮、名古屋《なごや》の城および孤篷庵《こほうあん》に、彼が天才の著名な実例をのこしている。日本の有名な庭園は皆茶人によって設計せられたものである。わが国の陶器はもし彼らが鼓舞を与えてくれなかったら、優良な品質には
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