かたへにありし翁、手をふりて、常に惡しき路の、今日は雨を經て、いと危し。こゝより下りて本道をゆかれよといふ。せめて、五百羅漢を見ながら、頂まで上りて、十國を一目に見おろさむと思ひたれど、朝おそく出でたるに、鹿野山までゆかむとする前途遠ければとて、やみぬ。音に聞えし石佛の路しるべせんかと云ひたれど、二子かぶり振りければ、さらば山を下らむとて、われ口吟すらく、
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尾の上には足ふみ入れむかたもなし
  妻とふ鹿の聲ちかくして
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と。こは山靈へのいひわけなり。
 鋸山の峰勢つきて、海に臨める處に、土俗、猫石と呼ぶものあり。二三丈もあらむと覺ゆる懸崖の、なか少し凹みたる上の方に、尾を垂れ、口をいからせる大猫の形、黒く高くあらはれたり。傳へて云はく、むかし年久しく猫を飼ひし人の、猫をすてて、船に乘りて出でてゆくに、猫見送りて、悲みに堪へず、終に化して、この石となれりと。佐用姫の故事におもひあはせて、附會の説を逞しうせるも可笑しや。
 金谷より、幾回となく、隧道を過ぎて、坦々たる國道、山と海との間をゆく。巖石の奇、歩を轉ずるに從ひてその觀を改め、大洋より
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