寄せ來る餘波、巖にくだけて、雪を崩し、花を散らすさま、いとおもしろく、東京灣内海岸の見るべきは、此の間を最とす。たゞに東京灣内のみならず、かゝる水石相鬪ふさまは、他にも多くは見ざる所なり。『浪の花こそときはなりけれ』と、羽衣くちずさみければ、『動きなき岸邊の巖を根ざしにして』と附くるほどに、湊に着く。海波の奇觀、こゝに至りて盡きぬ。
 一旗亭に午食するほどに、時は已に午後二時となりぬ。日の暮れぬほどにとて、出でたつ。村落つき、田疇へ來て、足先仰ぐ。こゝは鬼涙山《きなだやま》なり。當年日本武尊、相模より上總にわたり、この地にて蠻賊と戰ひたまひしとの事、正史には見えねど、口碑には殘れり。その時、蠻賊大いに敗れて、號哭せしかば、鬼涙山の名起れりとは、かの鋸山の猫石と一樣の附會とぞ覺えし。
 路は山腹を縫うてゆく。暮れかゝる冬の日の、落つる松釵の聲あるばかり靜かなるに、右に山又山を見おろして、心もゆるやかに、夕日にはゆる黄葉の下、涌く白雲に送られて、左に峯ひとつ攀づれば、こゝは鹿野山《かのうざん》の峯つゞきにして、眼界いとひろし。殷紅血を流すが如き夕燒の空を背にして進みゆくほどに、暮靄、乾坤を
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