て』と上の句つけたれど、はや眠りたるにや、答はなくて、鼾聲、雨に和して高し。
ひと夜あくれば、空晴れて、鋸山の秀色人を襲ふに、心まづ躍り、宿をたちいでて、鋸山へとたどること十餘町にして、山の口に達す。山は昨日の雨に洗はれて、紅葉の色鮮かに、石徑と共に落ち來る一道の溪流、水増して岩をたゝく聲いと大なり。溪流に沿ひ、石徑をよづること、七八町にして、日本寺の廢宇を得たり。一個の佛像、さびしげに壇上に殘れるのみにて、堂のあばらなるが、柱と柱との間に繩を引きて、烟草の葉をほせるなど、佛縁つきて既に久しきを知るべし。もとの僧房とおぼしきところの庭、眺望やゝ開く。加知山の灣、眼下にあり。海を隔てて、相州の山を望む。雲もし去らば、富士山はその上に現はれむ。顧みて、わが居る山を見れば、峰勢天に聳えて、さながら鳥の翼を張れるが如し。いと大いなる銀杏の樹の、美はしく黄ばみたるを始めとして、峰を越え、谷に下り、高低參差、黄赤相交はり、濃淡相接して、一山唯※[#二の字点、1−2−22]錦を晒すが如きに、曾て夏に見し景色とは、趣を異にして、別樣の觀ありて面白く、興に乘じて、峰を越えて直ちに金谷に下らむと云へば、かたへにありし翁、手をふりて、常に惡しき路の、今日は雨を經て、いと危し。こゝより下りて本道をゆかれよといふ。せめて、五百羅漢を見ながら、頂まで上りて、十國を一目に見おろさむと思ひたれど、朝おそく出でたるに、鹿野山までゆかむとする前途遠ければとて、やみぬ。音に聞えし石佛の路しるべせんかと云ひたれど、二子かぶり振りければ、さらば山を下らむとて、われ口吟すらく、
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尾の上には足ふみ入れむかたもなし
妻とふ鹿の聲ちかくして
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と。こは山靈へのいひわけなり。
鋸山の峰勢つきて、海に臨める處に、土俗、猫石と呼ぶものあり。二三丈もあらむと覺ゆる懸崖の、なか少し凹みたる上の方に、尾を垂れ、口をいからせる大猫の形、黒く高くあらはれたり。傳へて云はく、むかし年久しく猫を飼ひし人の、猫をすてて、船に乘りて出でてゆくに、猫見送りて、悲みに堪へず、終に化して、この石となれりと。佐用姫の故事におもひあはせて、附會の説を逞しうせるも可笑しや。
金谷より、幾回となく、隧道を過ぎて、坦々たる國道、山と海との間をゆく。巖石の奇、歩を轉ずるに從ひてその觀を改め、大洋より
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