寄せ來る餘波、巖にくだけて、雪を崩し、花を散らすさま、いとおもしろく、東京灣内海岸の見るべきは、此の間を最とす。たゞに東京灣内のみならず、かゝる水石相鬪ふさまは、他にも多くは見ざる所なり。『浪の花こそときはなりけれ』と、羽衣くちずさみければ、『動きなき岸邊の巖を根ざしにして』と附くるほどに、湊に着く。海波の奇觀、こゝに至りて盡きぬ。
一旗亭に午食するほどに、時は已に午後二時となりぬ。日の暮れぬほどにとて、出でたつ。村落つき、田疇へ來て、足先仰ぐ。こゝは鬼涙山《きなだやま》なり。當年日本武尊、相模より上總にわたり、この地にて蠻賊と戰ひたまひしとの事、正史には見えねど、口碑には殘れり。その時、蠻賊大いに敗れて、號哭せしかば、鬼涙山の名起れりとは、かの鋸山の猫石と一樣の附會とぞ覺えし。
路は山腹を縫うてゆく。暮れかゝる冬の日の、落つる松釵の聲あるばかり靜かなるに、右に山又山を見おろして、心もゆるやかに、夕日にはゆる黄葉の下、涌く白雲に送られて、左に峯ひとつ攀づれば、こゝは鹿野山《かのうざん》の峯つゞきにして、眼界いとひろし。殷紅血を流すが如き夕燒の空を背にして進みゆくほどに、暮靄、乾坤を封じて、老杉の下の小路くらく、燈を點ずる頃、鹿野山宿に達す。この地、近來大いに衰へたれど、なほ五六十の人家あり。曾遊の蹤を辿りて、丸屋にやどる。坐して東京灣と關八州の山野とを眼下に見下す絶景も、北吹く風のさむきに、戸の外に閑却して、浴を取るより早く杯を傾け、陶然たる醉心地快く、峯の杉に吹く風の音を、忘れては浪の音と聞くも、ひと夜濱邊にやどりて、ひねもす波騷ぐ岸を辿りし名殘にやと、烏山のうちいづるに、げにわれもと、相槌うちて笑ひし。
一夜川臥の夢おだやかに、明くれば、今日は都に還らざるべからず。宿を朝鳥と共に立ち出でて、途に神野寺《じんのうじ》を過ぎ、左に日本武尊を祀れる白鳥神社の石段を見上げて、右折すれば、九十九谷に出づ。こゝは鹿野山の一部にて、眺望いと好く、九十九の谷々を見下すとて、この名あり。遠き峯巒は、天半に連亙して、自然の墻壁を作り、近き群峯、脚下に起伏糾紛して、峯勢縱横、走るもの、蹲まるもの、臥するもの、立つもの、一に群獸の陸梁跳躍するが如く、峯と峯との間、即ち谷と云ふべきものの多きこと、啻に九十九にして止まらず。時に水瀦して、鏡をなし、溢れて川となりて銀蛇を走らすなど、げ
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