醉ひたるにや、さきに甲板に上りたる年若き女、手巾もて口を掩ひながら、いと力なげに下り來たる。雨に惱む海棠、風に顰する女郎花、よその見る目もいたはし。男二人横臥せる間のしりへに、わづかに膝を容るゝばかりの餘地を求めて、顏を袖に埋めて俯す。その頻にせきあぐるを見て、かたへに腰かけたる男、船童をよびて、嘔くうつは持て來らしむ。器來たる。女すこしばかり嘔きしが、遂にえ堪へで、横臥せる男の脛を枕にして臥す。雨ます/\降りければ、甲板にありし人、みな下りしに、舟はやがて金谷につきぬ。上陸する人あるが中に、かの船暈に臥したる女、よろよろと立ちあがり、裾さばきもしなやかに、その姑とおぼしき人の手をとりて、船の出口に導く。そのさまいと苦しげなり。やがて歸り來りて、叔母とおぼしき人を伴ひてゆきしが、また獨り歸り來りて、席に伏して、いたく嘔く。あはれ、船に醉へる嫁の、わが體は立たざるに、なほ年老いたる姑と叔母との、船に醉はざるをもいたはりて、扶けゆく心の底も汲まれて、さきに、あらぬ男の脚を枕にするなど、船の醉とは云へ、たしなみなき女なりと思ひしに、いまこのさまを見て、ひそかに涙を墮しぬ。
 保田にて汽船を下りて、短艇にのるほどに、雨大いに到りぬ。荷物堆くつみたる上に、十人餘りの旅客、傘をならべて蹲踞す。風荒れ、雨舞ひ、傘端の點滴、人の衣を霑して、五體覺えず寒戰せり。かくて上陸して一旅店に投ず。家は新しけれど、いとせまし。たゞ町の雜沓をはなれたるを取柄に、二階の六疊の一間に、三人火鉢をかこみて、ぬれたる衣かわかしなどす。窓より鋸山を望むに、雲の絶間に、時に寸碧をあらはすのみにて、全山は見るに由なく、雨いみじうして、いつ晴るべしとも見えず。せめて體をあたゝめむとて、午食の膳に、三人鼎坐して、杯を飛ばす。
 雨に早く暮れし夕べ、風呂湯ありやと問へば、なしといふに、益※[#二の字点、1−2−22]失望して、數杯をかたむけて止みぬ。かたみに連歌などなしゝが、烏山頭いたむとて、早く臥す。羽衣もわれも床に入りて、一唱一和せしが、はては疲れて眠りぬ。三とせの間、同じ窓にいそみし身の、江湖の外にうちとけて、浮世離れし茅店に川臥して、しづかに雨を聽くも、さすがに興なきにあらず。この夜、連歌したる後の即興に、『雨も心のありげなりけり』と、羽衣下の句を打出だすに、われ、とりあへず、『しめやかに語らふ窓におとづれ
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