獨笑記
大町桂月
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]
[#…]:返り点
(例)下戸不[#レ]知[#レ]藥
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)よし/\
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舊友の婚禮の宴に臨みて、夜をふかし、大に醉ひて歸り來り、翌日午前十時頃、起き出づれば、二日醉の氣味也。今日中に、二十五六枚ばかり起草すべき約束あり。されど、このやうな頭の具合にては、筆は執れず、執れてもろくなものは出來ず。これと思ふ問題も捉へて居らず。仕方なし、今一睡して、身體の具合を回復してからとて、微醉を求めて布團をかぶり、眠りかけむとせしに、急ち玄關に『大町君』と大呼す。宮崎來城の聲のやうなりと思ふ間もなく、來りて座に上る。果して、其人也。足掛三年にて、再び相逢ひたる也。二三日前上京し、一兩日の後、歸郷せむとす、今夜は、とめて貰ひたし、まづ酒を出せといふ。酒未だ出でず。松本道別飄然として來たる。裁判所よりの歸りなりといふ。三人とも親しき仲なり。互に奇遇を喜び、話を肴に、酒くみかはす。執筆の事も氣にかゝれど、今一日のびてもと、腹をすゑたり。
話次、道別余を戒めて曰く、君の惡詩到る處に惡評を聞く、詩は作るなと忠告してくれよと云ひし人さへあり、奮發して、大いに勉強し給へといふ。われ頷く。來城、壁間に掲げたる余が自作自筆の一軸を見つけて、この詩佳なりといふ。道別、意外なる顏付を爲す。道別は詩を作らざるが、來城は一代の詩人也。來城語をついで、修辭は未だ到らず。道別之に和して、其事々々、作るなら修辭を勉強せよ。余は、よし/\とうなづく。終に大いに醉ふ。來城は、口角泡を飛ばして談論し、道別は、にこ/\笑ひ、余はあひま/\に詩を吟ず。來城は、酒豪也。いかばかり飮みても、玉山倒れさうにも無し。余は翌日再び二日醉をしてはならずと思ふを以て、二人を促して、寢に就きぬ。
朝起き出でて、小酌するつもりて、三人鼎坐して杯を執る。來城ふと手にせる杯を見て、これは面白き文句なり、盃も、普通一樣のものにあらずといふ。見れば、なる程、厚味ありて、燒きもよささうにて、毫も厭味なく、やゝ黄味を帶びたる白色の外には、たゞ藍色にて下戸不[#レ]知[#レ]藥の五字が書かれたり。これを呉れよといふに、余はよし/\とうなづく。來城飮みほして、下におかむとすれば、道別忽ち、裏にも何か書いてあるといふ。ひつくりかへせば、果して上戸不[#レ]知[#レ]毒の五字あり。二句相呼應して、まことに面白き文句なりと一同覺えず破顏す。この杯、一種の興を添へて、また飮みしが、所謂毒を知らざるほどには飮まず。道別先づ眠る。余も眠る。來城も眠る。われ眼をさませば、二人既に起きて、火鉢を擁して、面白さうに談話す。どれや、今一酌と例の杯をとり出して飮む。細君、あれは、どうなさると心配さうな顏するを、來城きゝつけて、何事ぞと問ふ。昨日中に起草すべき約あり、されど、久し振にて、君が來れるに、それと斷りかねて、執筆をのばしたるなりと實を吐けば、來城怒つて、聲をあらゝげ、そは決して延ばすべきことに非す。われには唯※[#二の字点、1−2−22]酒をあてがはば、細君や子供を相手に、面白く飮むべきに、我れを遇することをつとめて、本職の執筆の約を破るとは何事ぞやといふ。君の言大いに好し、われ過てり、われは情もろく、氣弱く、人を見れば、たゞ氣の毒が先に立ち、よろづ己れに克つ能はず、宋襄の仁、尾生の信、竟に大仁大信なる能はずといへば、道別傍らより、然し來城君、その短所は、一方に於て、大町君の美を爲すなりといふ。細君は來城を顧みて、にこ/\す。われとわが短處を矯めむとすれど、人に逢へば、氣の毒が先に立ちて、意志忽ちにぶる。酒もひとりにて飮めば、味なし。未だ曾て微醉の度を過したることなし。酒客と共にすれば、味あり。興に乘じて、覺えず飮み過す。啻に酒のみならず、萬事此の如し。筆を以て世に立つ以上は、書を讀み文を作るが、第一のつとめ也。この務めを果さむには、意志をつよくして、少しは人につらく當らざるべからず。これ積極的方法なりとは知れど、修養未だ足らず、惰性に不快を感ず。已むを[#「已むを」は底本では「巳むを」]得ず、消極的方法を取り、山林の外に退きて、書と筆とに親しむの外なし。八九年以前、本郷に住みし頃は、執筆に忙しき時は、心ならずも留守をつかひしことありき。既にして以爲へらく、これ人の道に非ずとて、留守をつかふ代りに俗交をさけて、遠く西郊に移りしが、電車通じては、西郊もやはり都也。虚名久しきに及びて、俗累益※[#二の字点、1−2−22]多し
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