東京の近郊
大町桂月
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)二子《ふたご》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「にんべん+同」、第3水準1−14−23]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)來るは/\
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日本橋より四方五六里内外、徒歩して往復の出來る範圍内の地を、こゝに東京の近郊と稱す。南は、品川灣也。東には、江戸川(小利根ともいふ)あり。西には多摩川あり。荒川(下流は隅田川、大川)その中央を流る。東京の近郊は、以上の三大川を有し、臺地と低地とに分る。東より北へかけては低地にして、西より北へかけては臺地也。この臺地が、いにしへの所謂武藏野也。武藏野、今や野にあらずして、畑也。其大部分は、埼玉縣に屬す。日本國中、最も麥の收穫の多きは埼玉縣なるが、この臺地、水田となすに由なければ、自然に多く麥を植ゑるに由るなるべし。臺地も間斷あり。其の凹める處は、小川流れ、水田あり。其の川の水、池より出づるもあれど、臺地方面の近郊にては、多く玉川上水の水をひけり。玉川上水は、啻に東京市内に入りて、飮用に供せらるゝのみならず、用水として田に引かるゝもの、二十餘處の多きに及べり。
簸川平原は、山陰道にては第一の平原なるが、西風つよければ、この平原の農家は、西方に一列の木立をひかへたるのみにて、明るし。武藏野の農家は、四面に木立を帶ぶるを以て薄暗くして陰鬱也。東海道は、東京より神奈川に至るまで、幾んど家つゞきなるが、木立はつゞかざれば、路は明るし。甲州街道は、東京より七八里の間、家つゞきにして、兼ねて森林つゞきなれば、太だ陰鬱也。冬は日光あまり當らずして、雨餘の路惡るけれど、その代りに、夏は凉し。街道には、多く竝木あるものなるが、甲州街道の如き、森林つゞきの街道は、稀に見る所也。村路に至るまでも、路幅は廣し、東郊の低地は、路明るけれど、西郊の臺地は、樹林を帶びて、路何となく陰氣也。[#「陰氣也。」は底本では「陰氣也」]
農家の帶びたる樹木には[#「樹木には」は底本では「樹本には」]、欅多し。凡そ東京近郊の臺地ばかり、欅の多き處は天下幾んど其比なかるべし。中にも欅の竝木の見事なるは、府中の大國魂神社(六所明神)也。雜司ヶ谷の鬼子母神、之に次ぐ。
日本は古來、農國也。毎年同じ處に、同じものを植うるを以て、多く肥料を要す。其肥料には、人糞を充つ。都下二百萬人の糞、一半は糞舟にて海に向ひ、一半は糞車にのせられて近郊に出づ。大山街道、甲州街道、東山道、奧州街道の如き、都の出口は、糞車ひきもきらざるは、閉口也。二子《ふたご》の渡の如きは、晩方になれば、來るは/\、糞車數百の多きに及ぶ。神經家ありて、糞車と同舟することを嫌はば、終に渡るに由なかるべし。
武藏野の畑とならぬ處は、雜木林也。雜木とは、櫟、榛木など、木材とならずして、おもに薪炭に用ゐらるゝもの也。その雜木、西郊には、路ばたにもあり。東郊には、あぜ路につらなれり。
菜花は、田野の春をかざりしものなるが、ともし油幾んどすたれ、石油一般に用ゐらるゝに及びて、菜花の美もなくなれり。西郊には、全く無し。東北郊には遠くはなれて、をり/\之を見る。
花木の觀を言はむに、近郊に、梅園少なからず。その中にて、最も木ぶり枝ぶりの見るべきは、江東の龜井戸の臥龍梅也。梅園として、美事なるは、西南部の蒲田の梅屋敷也。この二園を見れば十分なるが、なほ江東には、木下川梅園、向島の百花園あり。百花園には、秋草もあり。西郊には、新宿停車場より程近き角筈の銀世界、蒲田の梅屋敷より程遠からぬ原村の立春梅あり。多摩川のかなたに、小向梅園ありたれど、去年よりすたれたり。
櫻は、小金井の櫻、天下の美觀也。東京には、吉野櫻といふもの多し。生長も早し。十年もたてば、可成り大きくなりて、滿樹花を帶ぶ。飛鳥山、向島、その他、諸所の櫻、多くはこれ也。吉野といふは、吉野山の櫻といふ意味にあらず、染井の吉野といふ植木屋の名に出でたるものなりと聞けり。小金井の櫻は、吉野山の山櫻を移植せるものにて、東京附近には、其類まれ也。玉川の上水をはさんで、兩岸に連なること凡そ一里半。樹も老いて大也。下流の方に、東京にありふれの吉野櫻を植ゑたるは、狗尾續貂の觀なしとせず。櫻の最も多きは、荒川堤也。一に熊ヶ谷土手ともいふ。凡そ三四里、荒川の左岸にあり、千住を過ぎて向島の櫻に連なる、小金井と荒川堤とが、東京近郊のみならず、之を天下の美觀と云ひても可なるべし。
桃は、市川、中山、越ヶ谷、やゝ遠くして、野田、八村みな桃也。これ天下無比の壯觀也。牡丹は本所四ツ目の牡丹園、美觀をきはむ。躑躅は、
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