みたる跡、右岸にあり。その跡も時々絶えて、岸辺の石を飛び飛びに歩かざるべからず。塩谷温泉までの巌峰だけにても、天下の絶景なるが、これなお鬼神の門戸にして、温泉からが楼閣也。その小箱に至るまでの神秘的光景は、耶馬渓になく、昇仙峡になく、妙義山になく、金剛山になし。天下無双也。層雲峡を窮《きわ》めたる者にして、始めて巌峰の奇を説くべき也。
 帰路、嘉助氏は渓中にて、死したる鱒を拾い上げしが、食いても旨《うま》からずとて棄つ。魚の中にて、能《よ》く急斜面の渓流を登り得て、最も深く最も高く山に入るものは、この鱒のみ也。その鱒は清渓に生れて、荒海に出で、もとの清渓に戻りて交尾し終れば雄直に死し、雌も間もなく死す。鱒にありては、恋愛即ち死滅也。
 往復僅か五、六里と油断して、戻りは宿の提燈《ちょうちん》に迎えられぬ。塩谷氏は年少気鋭、歩くこと飛ぶに似たり。誤って深淵に落ちけるが、水泳を心得おるを以て、着物を濡らせしだけに止まりたりき。山に登らん者は、水泳を心得ざるべからずとは、余の常に説く所なるが、今塩谷氏の例を実見して、ますます余の言の人を誤らざるを知れり。

    二 大雪山の第一夜

 層
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