菅の堤の櫻
大町桂月
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花に忙しき春哉。裸男ひとりにて、新宿追分より京王電車に乘りて、調布に下る。
南を指して行く。多摩右岸一帶の丘陵低く横はる。大山を左翼として、丹澤の連山その上に遙か也。十數町にして、多摩川に達す。前岸に櫻花の連なるを見る。これ近年櫻の名所となりたる菅の堤也。矢野口の渡に至れば、渡船あるかと思ひの外、土橋かゝりて、一錢五厘の橋錢を取る。上流の青梅の萬年橋より、下流の六郷橋までの間、多摩川に往來を通ずるは、すべてみな渡船なるに、こゝのみに橋ありて單調を破る。いづれ毎年少なくとも一度は流さるべけれと、船と船頭とに要する金を差引けば、さまで損にもならざるべし。而して行人に取りては、船より橋が、ずつと便利なり。氣が利きたるかなと感服す。
堤に上りて、下流さして行く。櫻は一列にして、二三十町もつゞく。樹はまだ小なれども、河原ひろくして氣持よく、武藏野につゞく木立果てもなく、多摩川べりの丘陵近く臥し、秩父の連山遠く立つ。このあたり多摩川の幅は六七町もあらむ。水はほんの一部分なるが、直ちに堤に接して流るゝが、この菅の堤に一層の風致を添へたり。
櫻盡くる處より引返し、一の掛茶屋に腰をおろす。酢章魚と鮨とを注文して、腰の瓢箪を取り出す折しも、酒樽到著す。到る處、『正宗』の瓶詰に閉口して、わざ/\瓢箪をもちゆけど、樽酒の新たに來れるを見ては、樽に對してもと、下らぬ處に義理張つて、試に飮んで見たるに、田舍酒は田舍酒なるも、なまじひの『正宗』のペーパーを附けたるものなどよりは、ずつと口に適して、飮むに足る。一本飮みて、微醉を催す。今一本飮まば、ちと多し。一合だけ注文す。合せて三合、これにて程よく醉ひ、瓢箪は滿ちたるまゝにして、去つて穴澤天神に詣で、祠後の山を攀ぢて絶頂に至る。四阿あり、ベンチありて、一寸公園風になり居れり。二株の老松、殊に偉觀也。その松に瘤多きこと、他に其の比稀れ也。近く多摩川を見下し、ひろく武藏野を見渡す。後ろを見れば、丘陵又丘陵。狹き山田ありて、蛙の聲をり/\聞ゆ。東京附近にては、
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