色既に太平洋上にみち渡りぬ。沖のくらきに漁火も見えず、惡魔の襲ひ來るばかりに凄き暗風、面を吹いて、氣持よからざるに、三年前に一見のなじみありし風光を、雨戸の外に閑却して、一浴し來れば、洋燈の光明に、隣席のつれこみのさゝめごと、しめやかなり。天隨、蝶二、いづれも酒場の剛の者なり。今宵一夜はこゝに飮みあかさむといきまきて、膳の來たるをおそしと盃とりあげしに、いづれも一と口にして杯を投じて苦顰す。酒惡しくして飮むべからざるなり。如何に『薄々酒優[#二]茶湯[#一]』の古詩を吟ずるも、遂に忍ぶ能はず。せめて處柄の磯節を聞かむとて、校書二人ばかり呼びぬ。都のうぶらしけれど、琵琶の女になずらふべくもあらねば、われらもまた江州の司馬にもあらず。程近き磯濱か、祝町かに一寸走りゆけば、たやすく得らるべき酒を、宿の者ぶしやうして買ひ來らむともせざるに、一同祝町に赴きて飮み直さむと一決す。天氣は如何にと窓を推せば、物すごく、暗き空に時ならぬ白雪紛々として降り來れり。この雪にと弱音を叶くものありて、車をと言ひ出だしたれど、四臺まではそろはず。さらばいざ雪見にころぶ處までと、宿の提燈かりて、闇を衝き雪を衝きて徒
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