、百に下らず。一々拜みゆけば、頭のあがる遑なし。世に叩頭蟲を學ばむとする人の稽古には、至極便利よき山也。
男峯の麓に掛茶屋あり。もと五軒ありしが、其中の向月、放眼の二亭はこぼたれ、迎客、遊仙の二亭は鎖され、依雲亭のみ店を張れり。茲に夫婦餅をひさぐ。その餅は、團子を平たくつぶしたるが如きものを竹串に刺し、之に田樂を添へたり。何故に夫婦餅といふかと問へば、田樂と合せて食へばなりといふ。蓋し男體、女體に思ひ合せたる俗人の考へ也。
こゝは女體山と男體山との間なれども、女峯には遠くして、男峯に近し。御幸原の稱あれど、峰脈の上の一小地に過ぎず。こゝより數町上りて、男體山の頂に達す。密雲脚下を封して眺望なし。同遊の横山子、これより水戸に赴かむとて、下館を指して、西に椎尾に下らむとし、澤田子と余とは、立身石を見て、南に筑波町に下らむとす。さらばとて、山頂に手をわかつ。天風、雲を送つて、夕陽影ひやゝかなり。一首の腰折を作る。
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呼びかはす聲も霞に消えゆきて
夕影寒し男筑波のやま
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下りゆく程に、余等遂に路を失ひぬ。澤田子、後ろに在りしが、忽ち脚を失して、ころ/\と轉がり來たる。あはやと思ふ間に、余の體に落ち重なり、余も共に轉ぶ。下に小牛の如き岩あり。之に當りては大變なりと、すばやく足を以て其岩を踏み、身體しばらく餘裕を得て、傍らの樹につかまりて、余等二人は止まることを得たれど、その餘勢は岩に傳はりて、ころび始めぬ。あはれや石に手なし。木につかまること能はず。見る/\、樹を裂き、枝をくだき、すさまじき音して下りゆきて、他の巖と鬪ひて、雲底に火花を散らすなど、壯觀云はむ方なし。われら始めて生きかへりたる心地して、口言ふこと能はず、體動くこと能はず、相顧みて茫然として佇立せしが、果ては谷底に落ちたるにや、岩の響全く聞えずなりぬ。われら荊棘を排し、榛莽をひらきて、漸く路を得て下る。清水の滴る處あり。これ有名なるみなの川の源なり。一首を作る。
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雲の上の高根をよそにみなの川
落ちて下りて淵となるらむ
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陰雲遂に雨をかもして、冷氣雨と共に肌に徹す。一難わづかにのがれて、又一難來たる。洵にさん/″\な目に逢ひたり。喬杉の下の險路を一呼して下り、薄暮、結束屋に達す。夜に入りて、雨益※[#二の字点、1−2−22]甚しく、山風加はりて、窓を打つ音物凄し。向側の妓樓にて、絲肉の聲、盛んに起る。宿の娘に問へば、この地に二人の老いたる藝者あり、東京より來れるなりといふ。
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山里の蘇小老いたり春の雨
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雨の寂しきに、用事仕舞ひたらば、話しに來ずやと言ひたるを、まことに受けて、宿の娘の、年十五六ばかりなるが、茶を入れかへて、持ち來たる。浴後、白粉淡く施したれば、別人の觀あり。同胞三人、上の姉は、家に在りて養子を迎へ、中の姉は東京に出で居れり。妾も二三月の後に、東京に行かむといふ。良縁ありたるにやと問へば、唯※[#二の字点、1−2−22]かぶり振る。
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こちら向け山物凄き夜の雨
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これは、『こちら向け我も寂しき秋の暮』の出來損ひ也。澤田子側より難じて曰く、その句には季が無いと。われ戯れに答へて曰く、本當に氣が有つてたまるものかと、澤田子噴飯す。この洒落、娘には分りしや否や知らねど、同じく笑ひを添へぬ。
明くれば、風雨名殘なし。八州の野。蒼茫として、脚底に横はる。
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俊鶻の翼に低し富士の山
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宿を朝鳥と共に立ちわかれて下る。顧みて筑波山を望めば、七合目以上には、『しが』かゝりて白し。玲瓏に非ず、模糊に非ず。雲とも見えず、雪とも見えず、又烟とも見えず。蓋し夜來の零露、曉寒に逢うて氷れるもの、土俗呼んで、『しが』とは云ふなり。北條、今鹿島、福岡、水街道を經て、この夜、野木崎村に一泊す。
宿の名を藤本といふ。旅館と料理屋とを兼ねたり。浴後、酒を命ず。土浦、筑波の宿に比して、その味大いに好し。且つ旅宿も今夜が最終なれば、安心して大いに飮む。飮むで饒舌る。酌女一人にては敵しがたしとて、又一人來たる。肴盡きて更に肴を命じ、酒は七本を倒す。興未だ盡きざれど、嚢中を想へば心細し。二圓餘りし金、四十錢を二人の女に祝儀にやりたれば、餘す所は、わづかに一圓六十錢、ぐず/\して居れば、又一人來さうな氣色なれば、已むを得ず、切り上げて眠る。枕上一絶を賦す。
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無限春風離別苦。征途有[#レ]恨君看取。我將[#二]雙涙[#一]寄[#二]孤雲[#一]。灑作[#二]筑波山下雨[#「灑作[#二]筑波山下雨」はママ]
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