春の筑波山
大町桂月

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【テキスト中に現れる記号について】

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]

 [#…]:返り点
 (例)青鞋好欲[#レ]趁[#二]新晴[#一]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)見る/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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追羽子をつくばの山に上らむと思ひたちしは、明治二十四年の夏、富士山にのぼりし時の事なるが、荏苒たる歳月、つくばねの名に負ひて、ひい、ふう、みい、よ、いつ、六歳を數へ來て、都は春の風吹き、山色翠を添ふる今日この頃、少閑を得て、遂に程に上る。
 横山達三、澤田牛麿の二子、午前五時迄に來りて余を誘ふ筈なれば、寢過ごしてはならずと、心して寢たれど、曉を覺えずといふ春眠いぎたなく、六時にいたりて、やつと眼覺めたり。これは大變と、飛び起きて、冷飯かき込み、行裝とゝのへて、これでよいと待てば、二子生憎來たること遲し。待つ身のつらさに、一絶を呻り出す。
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此去春風二百程。青鞋好欲[#レ]趁[#二]新晴[#一]。待[#レ]君未[#レ]至坐敲[#レ]句。籬外流鶯時一聲。
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 詩成ると共に、二子至る。連日の雨は霽れたれど、空はくもりて、風寒き春の朝なり。千住、松戸を經て、我孫子まで徒歩し、そこより汽車に乘る。大利根を過ぐれば、筑波山近く孱顏を現はし、秀色掬すべし。一絶を作る。
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又拭[#二]涙痕[#一]辭帝城[#一]。江湖重訂[#二]白鴎盟[#一]。天公未[#レ]使[#二]吾儕死[#一]。到處青山含[#レ]笑迎。
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 土浦にて汽車を下る。一帶の人家、霞ヶ浦に接す。白帆斜陽を帶びて、霞にくれゆく春の夕暮いとあはれなり。笹本といふ旅館に一泊す。
 明くれば、四月六日なり。路を北條に取り、神郡村を通りこせば、筑波山直ちに面に當りて屹立す。雙峰の天に聳ゆるを馬耳に譬ふるは、已に陳腐なり。強ひて此山を形容すれば、蝦蟇の目を張つて蟠るに似たりともいふべき乎。筑波の市街は、山腹、即ち蝦蟇の口の上に在りて、層々鱗次す。當年士女が此に來りて蹈舞せし歌垣の名殘は、今も絶えずして、筑波祠前に六箇の妓樓あり。旅館はわづかに三戸に過ぎず。春の日永の晝寢にもあきたるにや、遊女二三人、紐帶のしどけなき姿して樓前に草摘むも、山なればこそ。即興一句を賦す。
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のどけさや傾城草つむ山の上
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 三軒の旅館、江戸屋尤も大なれども、結束屋眺望尤も好し。結束に小憩して、まづ女體山の道を取る。祠前に掛茶屋の老爺、余等を呼びとめて、拜殿より左へ男體山に上りて、女體山より下らるゝが順路なりといふ。その老實なる心ばかりは汲みたれど、戯れに、女の方が善いと笑ひすてて上る。半分ばかり上りたらむと思ふ處に、忽ち頭上に嬌聲あり。云ひし言葉はわからねど、鋭く耳に徹す。筑波の女神の影向にやと、仰ぎ見れば、美婦、岩頭に立てり。傍に掛茶屋あり。『休んで行け』といふ。休みてまた上る。今一つ掛茶屋あり、こゝには老夫と少女と二人あり。是より峯脈をつたうて女體山に至る迄、八九町の間、巨巖磊々として、一々其名あり。曰く、天の岩戸扇石、一名辨慶七戻り、高天の原、紫雲石、天の岩戸胎内潜り、國割石、神樂石、大黒石、北斗石、寶珠石、大神石など是れなり。木橋あり、天の浮橋といふ。皆馬鹿げたる名なり。其中にて、出船入船と名付けたるは、稍※[#二の字点、1−2−22]氣の利きたる名づけ方也。二石相竝んで、其形巨船の如く、舳艫相反せり。其傍に高さ一丈、大いさこれに稱ひたる錨あり。出船入船より思ひつきたる洒落なるべし。國割石の上より、北に足穗、加波の連山を見下し、峯上を西に下れば、女體、寶珠の二峯、突兀として天を摩すと見る間に、白雲飛び來て、寶珠嶽を呑み、將に女體峯を襲はむとす。やがて寶珠嶽に上れば、雲は今女體を包みて、山下八州の野、手に取る如く見えしが、忽ちにして、白雲また下より涌き來りて、全く下界を封じぬ。人は雲と共に動きて、遂に女體山に上る。この峯、海を拔くこと、八百七十六メートル、男體よりも六メートル高し。峯上數武の地あり。小祠を安んず。見る/\雲は重なり來りて、咫尺辨ぜず。天風倒まに我衣を吹いて、天人我に※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]くの心地す。一句を作る。
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我れ獨り空に殘りし霞かな
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 女體山の上には、伊邪那美命を祭り、男體山の上には伊邪那岐命を祭る。其他、天照大神を始めとし、諸神を祭れる小祠相接し、その數
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